医史跡を巡る旅 №69 [雑木林の四季]
「西洋医学事始・多磨の蘭学」
保健衛生監視員 小川 優
東京近郊に住んでいる者にとっても、「多磨」の範囲をしっかり説明するのは難しいと思います。ざっくり言えば、東京都から23区と島嶼部を除いたもの、ということになりますが、感覚的に三鷹や町田あたりは多磨という感覚があまりありません。
歴史的に考えると、江戸という町、いわゆる御府内は意外と狭く、西方向でいえば新宿は甲州街道最初の宿場町でした。そこを超えると武蔵野ということで、東多摩、北多摩と続きます。
歴史的に考えると、江戸という町、いわゆる御府内は意外と狭く、西方向でいえば新宿は甲州街道最初の宿場町でした。そこを超えると武蔵野ということで、東多摩、北多摩と続きます。
さて江戸時代も後半、御府内には杉田玄白の天真楼、大槻玄沢の紫蘭堂、宇田川玄真の風雲堂、坪井信道の日習堂、吉田長淑の蘭馨堂といった蘭学塾が興隆し、各地から多くの生徒が集まっていました。彼らの多くは知識と技術を身に付けたあと郷里に戻り、学んだことを活かして治療を施し、そしてまたその知識を地域に広めていきました。中にはその腕を買われて幕府をはじめ各藩に抱えられる者もおり、またある者は、一人の師から学ぶだけでは飽き足らず、他門をくぐり更に学識を高めていきました。
そうした者の中に、多摩地区出身者がいます。
そうした者の中に、多摩地区出身者がいます。
「猿渡盛雅墓」
「猿渡盛雅墓」 ~東京都台東区谷中 谷中霊園
猿渡盛雅
号は研斎。文政7年(1824)府中の六社宮大國魂神社禰宜の織田筑後(のちの猿渡盛徳)の長男として生まれる。儒学を学んだ後、伊東玄朴に蘭学を学ぶ。水戸家や一橋家といった徳川近縁、また会津藩など幕府親藩の御抱医を経て、維新後は明治天皇侍医となる。明治15年官を辞し、日本橋に私立病院養生舎を設立する。明治41年脳溢血で死去。
号は研斎。文政7年(1824)府中の六社宮大國魂神社禰宜の織田筑後(のちの猿渡盛徳)の長男として生まれる。儒学を学んだ後、伊東玄朴に蘭学を学ぶ。水戸家や一橋家といった徳川近縁、また会津藩など幕府親藩の御抱医を経て、維新後は明治天皇侍医となる。明治15年官を辞し、日本橋に私立病院養生舎を設立する。明治41年脳溢血で死去。
「伊東貫斎墓」
「伊東貫斎墓」 ~東京都台東区谷中 谷中霊園
伊藤貫斎
名は盛貞。文政9年(1826)府中の大國魂神社神官の織田筑後の次男として生まれ、嘉永6年(1853)伊東玄朴の養子となり、長女まちと結婚して伊東家の別家を立てたため伊東を名乗る。弘化2年(1852)緒方洪庵の適塾で学び、その後長崎に遊学する。紀州徳川家寄合医師、幕府翻訳御用を務め、安政5年(1858)米国公使タウンゼント・ハリス重病の折には、下田で治療に当たる。安政7年には幕府奥医師として法印に叙せられる。種痘所設立に名を連ね、万延元年(1860)西洋医学所の教授に就任する。維新後は明治天皇の侍医となる。明治26年(1893)、67歳で死去。
名は盛貞。文政9年(1826)府中の大國魂神社神官の織田筑後の次男として生まれ、嘉永6年(1853)伊東玄朴の養子となり、長女まちと結婚して伊東家の別家を立てたため伊東を名乗る。弘化2年(1852)緒方洪庵の適塾で学び、その後長崎に遊学する。紀州徳川家寄合医師、幕府翻訳御用を務め、安政5年(1858)米国公使タウンゼント・ハリス重病の折には、下田で治療に当たる。安政7年には幕府奥医師として法印に叙せられる。種痘所設立に名を連ね、万延元年(1860)西洋医学所の教授に就任する。維新後は明治天皇の侍医となる。明治26年(1893)、67歳で死去。
伊藤貫斎が下田でハリスの治療に当たっているとき、滋養強壮のためハリスに供されたのが牛乳で、それを記念して建てられたのが前回もご紹介した牛乳の碑です。
「牛乳の碑」
「牛乳の碑」 ~静岡県下田市柿崎 玉泉寺
この兄弟のほか、父筑後、家督を継いだ三男兵部も医術の心得がありました。また猿渡盛雅の養子である猿渡常安(1849-1899)も医師、伊東貫斎の長男伊東盛雄(1854-1899)も明治天皇の侍医を勤めた医師です。
この二人より少し前、武州堺村、現在の町田市相原に青木得菴(1814-1866)という医師がいました。彼の息子玄礼は伊東玄朴のもとで学び、種痘術を身に付け、種苗を持ち帰ります。父子して種痘の普及に努めますが、玄礼は早世。娘のヤスに青木芳斎を婿養子として迎えます。
「青木芳斎墓」
「青木芳斎墓」 ~東京都町田市相原 青木家墓地
青木芳斎
天保3年(1832)多摩郡新井村(現日野市)に生まれ、旧姓湯浅。弘化元年、八王寺の蘭方医秋山義方のもとで医学を学んだのち、嘉永6年(1853)頃緒方洪庵の適塾に入塾。安政4年(1857)頃、武州に戻り開業。安政5年には青木得庵の娘ヤスと結婚し、婿養子となる。以後回春堂を開き地域医療に従事、種痘を広めるとともに、後述する八王子の眼科医秋山義方とともに蘭書の翻訳出版、金属活字印刷の実践などを行い、近代技術の発展にも寄与する。また初代堺村村長も勤める。明治38年(1905)、74歳で死去。
天保3年(1832)多摩郡新井村(現日野市)に生まれ、旧姓湯浅。弘化元年、八王寺の蘭方医秋山義方のもとで医学を学んだのち、嘉永6年(1853)頃緒方洪庵の適塾に入塾。安政4年(1857)頃、武州に戻り開業。安政5年には青木得庵の娘ヤスと結婚し、婿養子となる。以後回春堂を開き地域医療に従事、種痘を広めるとともに、後述する八王子の眼科医秋山義方とともに蘭書の翻訳出版、金属活字印刷の実践などを行い、近代技術の発展にも寄与する。また初代堺村村長も勤める。明治38年(1905)、74歳で死去。
「青木家屋敷」
「青木家屋敷」 ~東京都町田市相原 青木医院
青木家の住宅兼診療所として現在も使われている建物で、文久2年(1862)頃の建築と推定されます。自宅の裏山に屋敷墓があり、青木芳斎の墓のほか、墓地入口には顕彰碑があります。
「芳斎翁之碑」
「芳斎翁之碑」 ~東京都町田市相原 青木家墓地
また芳斎の養父である得菴を記念して、妻喜代が27回忌に、近隣寺院の境内に牛痘種痘の始祖であるエドワード・ジェンナーの碑を建てました。
「善寧児先生碑」
「善寧児先生碑」 ~東京都町田市相原 清水寺
碑由来には「青木得菴種痘普及為紀念 明治廿五年四月建碑之青木喜代」とあります。
芳斎とともに多磨の西洋医学と科学の振興に貢献したのが、八王子千人同心でもあった秋山義方。
芳斎とともに多磨の西洋医学と科学の振興に貢献したのが、八王子千人同心でもあった秋山義方。
「秋山義方墓」
「秋山義方墓」 ~東京都八王子市万町 観音寺
秋山義方
名は担海。安政8年(1779)八王子同心の飯田家に生まれる。五歳の時に秋山家の養子となる。江戸でシーボルトの門弟である湊長安に学び、帰郷して眼科を開業する。高野長英とも親交があり、秋山宅に数日滞在したことがあったという。70歳で没する。
名は担海。安政8年(1779)八王子同心の飯田家に生まれる。五歳の時に秋山家の養子となる。江戸でシーボルトの門弟である湊長安に学び、帰郷して眼科を開業する。高野長英とも親交があり、秋山宅に数日滞在したことがあったという。70歳で没する。
「秋山義方(佐蔵)墓」
「秋山義方(佐蔵)墓」 ~東京都八王子市万町 観音寺
息子佐蔵も義方を名乗る。文化13年(1816)生まれ。伊東玄朴の象先堂で西洋医学を学び、医業を継ぐ。安政5年(1858)フーヘランドの「済生三方付医戒」を翻訳、金属活版印刷にて刊行する。明治20年(1887)死去、72歳。
八王子千人同心とは、幕府が甲州街道の守りとして設けた半士半農の武装集団です。通常は農業に従事しますが、有事には帯刀が許されました。また徳川家康を祀る日光東照宮の火の番も任務としました。秋山父子の眠る観音寺の山門は、千人頭の中村家の門を移築したものと伝えられています。
「観音寺山門・蘭方医秋山義方父子之碑」
「観音寺山門・蘭方医秋山義方父子之碑」 ~東京都八王子市万町 観音寺
観音寺の山門前には、蘭方医秋山義方父子之碑が建てられています。
千人同心には文化人も多く、また先進の知識を学び、地域に貢献する者も多く出ました。蘭学、西洋医学に関しては、先に取り上げた秋山父子より前に、伊藤猶白、小谷田子寅が先鞭をつけています。
千人同心には文化人も多く、また先進の知識を学び、地域に貢献する者も多く出ました。蘭学、西洋医学に関しては、先に取り上げた秋山父子より前に、伊藤猶白、小谷田子寅が先鞭をつけています。
「伊藤猶白墓」
「伊藤猶白墓」 ~東京都八王子市並木町 長安寺
伊藤猶白
延享4年(1747)生まれ。千人同心組頭伊藤正純の弟で、最初漢方を修めるが、晩年に蘭方を学び、写本したオランダ語辞書が残されている。天保2年(1831)没。
延享4年(1747)生まれ。千人同心組頭伊藤正純の弟で、最初漢方を修めるが、晩年に蘭方を学び、写本したオランダ語辞書が残されている。天保2年(1831)没。
「子寅先生碑」
「子寅先生碑」 ~東京都八王子市下恩方町 心源院山門前
小谷田子寅
宝暦11年(1761)生まれ。幼くして父を亡くすが勉学を好み、天文学、蘭方医学を学ぶ。知識を活かして庶民の治療にもあたり、広く親しまれたという。天保2年(1831)71歳で死去。
宝暦11年(1761)生まれ。幼くして父を亡くすが勉学を好み、天文学、蘭方医学を学ぶ。知識を活かして庶民の治療にもあたり、広く親しまれたという。天保2年(1831)71歳で死去。
三鷹、町田、立川、八王子など、独自の文化を色濃くする多摩地区の気概は、幕末の頃からすでに形成されていたのかと思わざるを得ません。
2020-01-12 10:09
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