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対話随想余滴 №29 [核無き世界をめざして]

余滴29 関千枝子から中山士朗様へ

            エッセイスト  関 千枝子

 この項、昨年(二〇一九年)暮れに書きあげていまして、それを送ろうと思っていたのですが、年が明けてみると新しいことを書いてみたくなり、最初の部分書き換えました。
 私のところでは、毎年正月子どもたちに集まってもらい、私の作った正月料理を食べてもらう習慣です。我が子どもたちみないま働き盛りで忙しいし、年一回だけの親子宴会なのですが、今年は私体力が持たないと思い、取りやめることにしました。料理がうまいわけでもないのですが、出来合いの味が嫌いです。例年通りのことをやっていたらとても体が持たない、それに家の片付けもできていませんし、思い切って今年は取りやめを宣言しました。これは成功したようです。
 料理の数量を減らし、掃除も気にしないだけで、うんと体が楽になりました。大晦日も余裕たっぷりです。精神的にもイライラしないせいか、このところ一か月ばかり「じんましん」に悩まされていたのですが、それも卒業できそうです。大晦日や、正月のテレビも楽しめましたが、その話はまた次にして。
 いろいろな方にお世話になったので年賀状だけは出しましたが、多くの方に書いたのは二〇二〇年の八月の不安です。オリンピックが八・六、八・九に重なること気が付いていない人が多く、オリンピックに浮かれて、敗戦・被爆七十五年であることも分からなくなるような状況になったらと大変心配と、くどくどと書きました。
 実は私、十二月十三日がとても大変な大役があってそれがすむまで落ち着かなかったのです。この日は、安保法制違憲訴訟・女の会の裁判で、証人、原告の「尋問」が行われる日で、私も原告十人の中に入りましたので、責任を感じておりました。「尋問」というのは裁判用語で、意見を書いてくださった証人や陳述書を提出している原告(もちろんその中から選ばれた数人)に法廷で、弁護士との間で一問一答方式で、言いたいことを述べる、単に陳述書を読むより迫力あるものになります。それが嫌なのか、時間を取り面倒なのか、裁判官は嫌い。「必要ない」と受け付けない人が多いいのですが、この女の裁判では、裁判官が原告の意見を聞く姿勢を見せ、二日にわたって「尋問」のスケジュールを認め、私たちも張り切っていたのです。ところが、十月十八日の法廷へ行ってみたら、裁判官が変わっているではありませんか、弁護士のところにも通知がなく、弁護士たちもびっくり!こんな失礼なやり方は、普通は考えられない。新裁判官のことをどんな人か調べてみたら、最高裁の事務職とか、「事務職」のベテランのようですが実際の裁判はあまりしたことがない人のようです。何だか妙です。この頃の司法の姿勢 怒ることばかりですが、仕方ないので新裁判長と話し合い、従来通りの尋問を認めさせたのです。
 十三日は証人の尋問と原告四人の尋問、私が最後の四人目、時間が二十分しかありません。十月十八日から十二月十三日まで私たち原告と尋問担当の弁護士との間で「予行練習」が始まりました。皆言いたいことは山のようにあるが、全部は言えない(時間が足りない)何をどういうふうに言うかです。私の場合、『戦前を知る者』として「少国民」に仕立てあげられた戦前の学校や社会の様子を詳しく書くべきかと考考えましたが、もっと原爆のことを書いてほしいという意見が出ました。実際に被爆者の方も何人か原告におられるのに。尋問に選ばれた被爆者は私一人、やはり原爆のことは言わなければなりません。
 尋問の組み立ては被爆したことから始めました。その時の様子(私の体験)から始まり、作業地で被爆した友人の様子。仲の良かった友の家に行ったのに何もできず逃げかえり、その後彼女の家に行けなかったことの悔恨を語り、何年経っても原爆への怒り、苦痛(生存者としての辛さ、休んで助かったことの罪悪感も含めて)は癒えないこと、もし癒える日があれば、それは核兵器がなくなる日であることを話し、ヒバクシャの思いは核兵器の廃絶。核兵器禁止条約に対する日本政府(安倍氏)への怒りを強調しました。そして、「‥‥二年西組』を書いた話から、建物疎開作業で死んだ少年少女たちが「軍国少国民」として死んでいったものが多いという話から、いかに私たちが「少国民に仕立て上げられたか」を語りました。
 若い方がご存知ないこと、それはあの一九三〇年代、「平和」という言葉が大いに言われ、私たちは東洋平和(世界平和)のためにやむなく戦争をしている。聖戦だから勝たなければいけないと思ったことも語りました。それは安倍さんの言う「積極的平和」のウソに通じることであるのですが。
 安倍さんは、安保関連法が「戦争法」と言われるのを嫌って、「国際平和支援法」とか、平和という言葉を入れ、もっともらしい名付けをしていますが、そんな「平和」がいかにあてにならないかを強調しました。その証拠に、私たちが子どものころ愛唱した歌で「東洋平和のためならば」という言葉があること、愛国行進曲(この歌・「みよ東海の空あけて」を忘れる人いませんね}にも「正しき平和打ち立てん」とあること、そしてなんと、あの一九四一年十二月八日、米英等との開戦の詔勅にも平和という字が六ケ所もあることを言いました。この話には傍聴の人びとも驚かれたようです。
 私自身、この「尋問」のため調べてみて驚いたのですが、「東洋平和のためならば」という歌、調子が良くて私はっきり覚えているのですが、曲の名前も全体の歌詞もメロディも全く覚えていなかった。それが今度きちんと調べてみて、なんと「満州行進曲」という名前で私の生まれた一九三二年に作られた歌、しかも作曲者が堀内敬三さんなのです。これには驚きました。堀内さんと言えば戦後も華々しく「話の泉」などで大人気、「音楽之友社」を作られたのも堀内さんですね、いいイメージしかありません。それがこんなに早く、満州国成立の年に、国策イメージの曲を作っていたとは!しかも、ご本人が、レコード店を使って宣伝した最初の曲、などと言っているのです。
 確かに、あの頃、街のレコード屋でガンガン曲を流している風景がありましたが。そうして子どもまで東洋平和のためならば、と歌っていたのですね。この「東洋平和のためならば」の曲に関しては私くらいの方から「自分も歌っていた」と思い出を語ってくださる方、たくさん知っています。
 実はこの歌のこと調べているうち、「開戦の詔勅」が見つかり六ケ所も「平和」という言葉があるのに驚いたのです。あの「勅語」に関しては、開戦後、八の日が「大詔奉戴日」となり、いやというほど聞かされたのに、覚えている人は少ないのではないでしょうか。私も、教育勅語は腹立たしいことに、まだほとんどソラで言えるのに、開戦の勅語については全くおぼえていません。敗戦の勅語は「堪え難きを耐え忍び難きを忍び」の有名な言葉がありあそこだけは言えますが。逆にそうなると教育勅語がなぜみなの頭に沁みこんでいるかという疑問に突き当たりますが。
 ともかく私は開戦の勅語に平和という文字がたくさん入っていることを発見、驚きました。つまり天皇は自分は全く戦争はしたくない。世界の平和を願っているのに、シナが言うことを聞かず、米英等が言うことを聞かないのでやむを得ず戦争をするのだ。戦争は自分の志ではない、ということをくどくど言っているのです。とにかく、太平洋戦争開戦のころまでは「平和」という言葉がまだまだ飛びかっていた。戦争の様子がおかしくなっていくなか、歌もまるでケンカのようなものすごいものになって行く。「平和」という言葉も消し飛んでいったのでしょうね。
 こんなことを資料で示し、最後はヒバクシャの思い、同盟国の核の傘の下に身を置き、核の傘を認めるのは、核兵器廃絶の背を向けることで断じて許せないという言葉で締めました。
 しかしこれだけのことを二十分で言うのは大変で、言葉を選び思い切って削り簡略にしました。これを全部丸暗記すれば問題ないのですが、俳優ではない私、丸暗記は下手。それから詰まって言い直しなどしていると時間を食ってしまいます。結局言わなければならないこと、質問の順序をよく頭に入れておき、そこで何を言うか。しっかり頭に入れました。予行演習もニ三度したのですが、かなり緊張しました。 
 おまけに私、このところ夜の頻尿に悩まされ、薬を飲んでいますが、薬のため口が乾き声が出なくなるのです。水を飲んでもすぐ乾くので仕方なく飴をなめるのですが、これをどの時間でなめ始めるか、いろいろ気を使います。ともかく、無事に行き(ほかの皆さんもとても素晴らしかった)ほっとしました。
 前に書いたヨーロッパで能の会、多田富雄さんの長﨑のマリア像の能の上演などもあったのですが、これのワルシャワ公演を見た、堀池美帆さんが講演の様子をまとめたビデオを送ってくれ、様子が分かりました。
実はこの話、講演の話というより堀池さんのことを書きたかったのです。彼女のこと、前にも書きましたので覚えておられるかどうか、もう七,八年前彼女が高校に入ったばかりの時広島に来、その時知り合ったのですが、大学生たちの中に混じって高校に入ったばかりの彼女が原爆のことに関心持っているのに驚いたのですが、会った翌日、偶然、平和資料館の前で、外国人を捕まえ、感想を聞いている彼女に驚きました、それから彼女と友達となり、彼女も毎年広島に来てくださったのですが、東日本大震災の時はボランティアになり、現地に手伝いに行く、学校の外国との交流行事でイギリスに行ったときはイギリスの人にヒロシマを語り、千羽鶴を折ってもらうとか、社会問題に関心深く、そして行動的でいいと思えばすぐやる、今時の若い子でこんな人はいないとどこでも評判だったのですが。それが、大学に入ると能楽に凝ってしまったのです。観世流の同好会があって、仕舞いや謡いを習うのですが、彼女、能にはまり込んでしまいました。ヒロシマ関係で彼女と知り合った人で能のことなどに詳しい人はいませんので、私が彼女の能への関心を引き受けることになりました。私は父が能を好きだった関係でかなり能に詳しいのですよ。彼女の能への打ち込み方は尋常ではなく、大学の卒業を一年遅らせたのには私もびっくりしました。
 そして昨年。幾らなんでもこれ以上大学に居られない、私は彼女がビデオ作りなども結構うまいので(彼女のお父さんはそちらの方の仕事というか、プロダクションの人です)、ひとまず映像の世界に行って、そちらの方で力をつけるよう勧めました。能楽の方で仕事を見つけるというのは、ほとんど不可能でしょうから。彼女もその気で、NHKを受けたのですが、ダメで、映像制作のプロダクションに入りました。今年の四月に入社したのですが、まだ下働きでそう忙しくないようで、八月にはヒロシマに来てくれました。そして、九月に観世流の銕仙会が、ヨーロッパ公演をする、その中に多田富雄さん原作の「長崎のマリア」も上演される、というのです。そしてヨーロッパ公演の中心で、講演ではシテ役をやる清水寛二先生がちょうどいま広島におられるからと私に引き合わせてくださったのです。彼女は同じ観世流でも銕仙会ではなく彼女自身清水先生と会うのは初めてらしいのですが(このあたり強引というか、彼女らしいのですが)。公演はパリ、ジュネーブ、ワルシャワで彼女はワルシャワの切符をすでに購入しているというのでびっくりしました。
 いくらプロダクションとはいえ、新入社員がそう休みをとれるのか、心配して聞くと、会社との交渉はこれからと言います。驚きましたが、清水先生は立派な方で、非常に参考になるいいお話を伺えよかったです。
 それで堀池さんですがその後もどうなったか心配していたのですが、会社は能の外国公演などあまり興味はなく、そんなに休みを取られても困る、ワルシャワ行きはよせというので会社を辞めちゃった、というのです。とにかく気が大きいというか、私ならせっかく見つけた会社辞められないと思うけど。でも彼女平気で、ワルシャワに行ってよかった、清水先生のおかげで、能の公演だけでなく舞台裏も写させてもらいとてもよかったと言います。暫くお父さんの会社でバイトをし、その後はある日本料理の店の「給仕」というのでまた驚いたのですが、普通の料理屋でなく、その道を究めた人で、予約の客だけ受け入れる、客も外国人が多いのでその説明もあり普通の「給仕」ではだめなのですね。堀池さんは、英語は相当うまいし(普通の会話は困らない)うってつけのようです。この店のこともインターネットで知り、この「料理人」の本を読み、ここならいけると思ったそうです。
 それから大分時がたち、どうなったかと思っていたら彼女からビデオが送られてきました。銕仙会の公演報告に使われたもので、二十一分に要領よくまとめられていました。ワルシャワの公演場になった昔の王宮の美しさに感心し、能とよくマッチするのに驚きました。
 能は「長崎のマリア」だけでなくほかの新作能も入るのですが,間狂言に向こうの方が向こうの言葉で語ったり、色々面白い演出があって面白かったです。また観客の方の感想もとっていましたが、好意的な感想が多かったです。原爆で汚れたマリア像の顔、新しく面を作ったのですが(今も能面を作りつづけている人いるのですね)いい面で、ポーランドもカトリックの方が多いし、原爆の恐ろしさも平和のこともよく理解されたようでした。
 ビデオに同封された手紙には、新しい職場は面白く、いろいろなことを教わり刺激的だとありました。楽しく働いているようで安心しました。堀池さんに今度お会いするのが楽しみです。 まだ報告すべきことあるのですが、いかになんでも長すぎるので次回に回します。

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