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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №19 [文芸美術の森]

 「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事」

           早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 高島さんは私には遠慮しなかった。私の書斎に入ってくるなり、「だいぶ部屋の空気が濁っているね。窓をあけるがいいよ」と注意した。ある日どういうわけか書斎ではなく、私たちはリビングにいた。
 同居していた母が、友人がくるとまめに世話をしてくれたので、食事をしたり泊まったり、友人のなかには滞在するものもいた。高島さんはよそで世話になるのを避けた人なので、私の家で食事をしたことは想いだせないが、そのとき私たちはリビングで話していた。半ば仕切られたキッチンの流し台で母がゴツシ、ゴシと耳障りな音をたてて米をとぎ始めると、高島さんはすっと立ち上がってキッチンに行き、「米はこうして洗うものです」と言いながら、そっとまろやかに洗い、水を流しながら、「米は一粒たりとも無駄にしてはなりません」と言った。
 《菜の花》(口絵10)の無数の花弁を一枚々々措きわけて、存在するものの隅々にまで光を届かせた画家の、これは生きる技術というより、思想の実践だったのだろう。野十郎の絵を見てしまった以上、私にはかれを明治生まれの単なる倹約家だとみなすことはできない。
 画家の遺稿『ノート』にはこう記されている。

 花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事……それは洋人キリスト教者には不可能

 「洋人」でこそなかったが私の母は都心のキリスト教会にかよう「キリスト教者」だった。もちろん、「洋人」のキリスト者や詩人には汎神論的な傾向をもつ例外もあるが、野十郎がここで触れているのは一般的な傾向である。かれが一神教としてのキリスト教に反撥しているのは、欧米の学説に、宗教の段階では一神教が最高であり、下って汎神論となるというのがあるからだ。そのぶん野十郎の反撥力もつよくなる。
 都合あって高島さんから長いあいだ借りていた本に、戦後「老いらくの恋」で騒がれた歌人、川田順の『西行の伝と歌』がある。私は西行が明恵上人にあてた書簡の一節を記して部屋の扉に貼っていた。
 「華を読むとも実に華と思うことなく、月を詠ずれども実に月とも思わず(省略)、紅虹(こうこう)たなびけば虚空いろどれるに似たり、白日かがやけば虚空明らかなるに似たり」。
 これはあとから挿入された擬文らしいが、それはともかく芸術と宗教の関係にふれた文章がすばらしく、画家がこの本を読んでいたことは、いまの私に大きな手がかりをあたえてくれる。
 西行(二一八~一一九〇)は空海(七七四~八三五)を宗教上の理想の人として仰ぎ、しばらく高野山で暮らした。野十郎は西行の和歌に学んだだけでなく、空海への西行の敬慕、世俗とのつかず離れずの隠遁生活、しばしの高野山暮らしにも親近感をおぼえていたはず。
 野十郎はいちど私に、空海が開創した「高野山に行きたいと思っている」と、拙宅からバス停までの途中でつぶやいたことがある。私は内心、高島さんはまだ行ったことがないのだろうかといぶかった。かれが高野山行きをこのとき思い立ち、私に言ったのであれば、画家と高野山との関係はいよいよ抽象的で、思想的なものといえる。
 私はなぜそのときとっさに「案内していただけませんかね」と応じなかったのだろう。また、「まだお行きになったことはないのですか」と聞かなかったのだろう。
 画家が弥寿を野十都と改めた二十代には、長兄宇朗の影響下にあって、真言宗と近い位置にあったとは思えない。早くとも三十歳をすぎてからだろう。親しい長兄が座禅にのめりこむほどに野十郎は真言系に傾いたにちがいない。

 兄、宇朗と同じ遺伝子を継いだらしく、野十郎は歌人の素質に恵まれていた。次の一首は高度成長のあおりをくつて、住まいの転出を迫られ、柏市増尾から千葉の海岸べりに土地探しやアトリエの検分に赴いた折の心境を海に借りて詠んでいる。

  海の辺は立つも坐るも波ゆるる
  我が身の程の思ひ知られつ.

 海浜では立っても座っても波が揺れている、という着想が私にはひどく新鮮に思われる。その揺れが画家の遁世の生涯にむけて押し寄せる地震の前触れにも余震にも感じとられる。

川崎菜の花.jpg
「菜の花」


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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