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医史跡を巡る旅 №68 [雑木林の四季]

「余は如何にして医史跡探求徒となりし乎」

            保健衛生監視員  小川 優

謹賀新年

拙い連載も、4回目の新年を迎えることとなりました。
連載回数も68回、ご紹介した史跡も200を超えました。拙文をお読みいただいている皆様、そして発表の機会を与えていただいている知の木々舎、横幕様に深く御礼申し上げます。

タイトルがかつて本誌で連載されていた、内村鑑三の名著のそれをリスペクトしたものであることは、すぐお判りいただけたと思います。
内容的にはそんな崇高なものではなく、新年のお屠蘇の酔いに任せた放言と、お許しください。ちなみにお屠蘇の語源である屠蘇散とは、生薬を調合した漢方処方の一つで、必ずしもアルコールが含まれているわけではありません。成分が溶け出しやすいよう酒に浸し、溶出させたものを飲用するために正月の祝い酒の代名詞となっていますが、酒の代わりに味醂も多く用いられます。とはいえ味醂も元々お酒の一種で、本みりんのアルコール度は日本酒と変わりません。そのために今回の消費税増税でも本みりんは食品に適用される軽減税率ではなく、酒類と同じ本則10パーセント扱いとなっています。なお、「みりん風調味料」にアルコールは含まれず、食品扱いです。

新年早々脱線しまくり、薬臭くて申し訳ありません。
前振りが長くなりましたが、今回は西洋医学事始編を一旦お休みし、タイトル通り、なぜ私が医史跡巡りをするようになったかというお話をしたいと思います。

さて元はといえば、大学の研究室で指導教官としてお世話になった春田三佐夫先生が、Modern Mediaという雑誌に「断片医学史散歩」を連載されており、毎回楽しみに読んでおりました。緻密な文献調査のうえで、現地を訪れた紀行を飄々とした文章にまとめられおり、その内容とともに文体にも魅了されておりました。

社会人となってしばらくして、浜松を訪れる機会がありました。目的の仕事を早めに終え、予約した帰りの電車まで時間ができた時、ふと春田先生が以前、浜松の史跡についてお書きになっていたことを思い出したのです。慌てて電話帳を調べ、浜松市教育委員会に電話をかけ、場所を確認して訪れたのがこちらです。

「慰霊碑」

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「慰霊碑」 ~静岡県浜松市中区広沢一丁目 県立浜松北高等学校校庭

碑本体の前面には「慰霊碑」としか彫られていませんが、基部に由来を記した石板がはめ込まれています。

「慰霊碑石板碑文」

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「慰霊碑石板碑文」 ~静岡県浜松市中区広沢一丁目 県立浜松北高等学校校庭

「昭和十一年五月十日校内運動會を擧行す會終わって恒例に依り紅白の餅六個を生徒に分つ何ぞ知らん餅中毒菌を含まんとは一夜にして病床に呻吟する者二千二百有餘難に殉する者生徒二十九名家族十五名の多きに及ぶ實に未曽有の悲惨事なり
同窓會保護者會校友會相謀りて資を集め本縣教育會其他篤志家の浄財を加へ茲に碑を建て以て英靈を弔ふ
昭和十二年五月建之」

昭和11年当時、県立浜松第一中学校と呼ばれていた本校を舞台としたこの事件は、大福餅を原因食品とするゲルトネル氏菌、現在ではサルモネラと呼ばれる食中毒菌が引き起こしたものでした。サルモネラは動物の腸管内に住む細菌で、チフス菌もサルモネラに含まれるほか、赤痢菌も近い仲間です。

コレラや赤痢など、疫病で亡くなった人々を供養する塚や碑は各地に残っていますが、食中毒を起因とする慰霊碑は、私の知る限りでは、この浜松第一中大福餅事件と、堺の給食O157事件によるもののふたつです。
急に思い立って訪れたため、まず浜松第一中学が今なんという学校なのか、そしてそもそもどこにあるのか、それを調べるのに一苦労。今ならスマホで検索し、地図アプリで確認すればすぐにわかることも、当時は教育委員会に電話で問い合わせて調べてもらい、その情報をもとにホテルのフロントで地図を見せてもらってやっと見つける、という具合でした。
さらに記録に残そうとも、カメラ(もちろんフィルムカメラ!)を持って行ってなかったので、使い捨てカメラを売っているお店を探して回り、なんとか手に入れたパノラマカメラで、きちんととれたかどうかもわからないまま、限られた枚数を撮り切りました。上の画像も、当時のプリントをスキャンしたものです。

医史跡訪問一発目で、医史跡は観光地とは違い、事前にしっかり調べてから現地に向かわないと辿り着くこともできないこと、撮影のための機材は予備も含めてきちんと準備することを学んだ次第です。

こうして初めて訪れる場所では観光地ばかりでなく、医学史に関係する場所を探しては記録することを始めましたが、最初の頃は医学薬学に限らず、動物の慰霊碑や、医学以外の発祥の碑なども記録していました。

「ふぐ塚」

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「ふぐ塚」 ~東京都夢台東区上野公園 不忍池弁天堂

カモメに蹂躙されていますが、東京ふぐ料理連盟が昭和40年に建立したふぐ供養碑です。

「牛乳の碑」

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「牛乳の碑」 ~静岡県下田市柿崎 玉泉寺

黒船の圧力で開国を余儀なくされた幕府は、まず下田に領事館を開くことを認めます。総領事に着任したタウンゼント・ハリスは、慣れない異国で病に臥せります。治療の一環として牛乳が供せられ、これを牛乳売買の初めとして、記念碑が昭和37年建てられました。

そうこうするうちに、手塚治虫の「陽だまりの樹」という漫画に出会います。

「陽だまりの樹」

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「陽だまりの樹」

幕末の動乱期を、武士と蘭方医の二人を主人公として描いたもので、歴史を踏まえた創作漫画です。創作とはいえ、登場する主人公の内、蘭方医は実在した人物をモデルにしており、それが作者手塚治虫の曽祖父である手塚良庵(のちに良仙)です。
手塚良仙については、お玉が池種痘所のお話で詳しく取り上げる予定です。

「手塚良仙の墓」

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「手塚良仙墓」~東京都豊島区巣鴨 總善寺 ※許可をとって撮影

そして2000年、愛読している漫画雑誌で村上もとかの「Jin-仁-」の連載が始まります。

「Jin-仁-」   

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「Jin-仁-」

現代の脳外科医が、幕末にタイムスリップし活躍、歴史を変えていく、という粗筋だけを言ってしまうと荒唐無稽に感じますが、よく幕末の医学状況についてよく調べ(なんと、監修は医史学の権威、酒井シヅ先生!)細かく描き込まれており、さらに医学の原点、「医は仁術」に立ち戻ったヒューマンドラマに仕上がっています。TBSでドラマ化されており、こちらをご覧になった方も多いと思います。ドラマの方の出来もよく、特にBGMが秀逸で耳に残ります。

こうした作品との出会いを経て、近代医史を積極的に調べ、医学に関わる医史跡をメインに回るようになります。
温故知新というわけではありませんが、日進月歩の現代でも過去に学ぶことは少なからずあります。特に幕末に西洋医学を学ぶということは、当時の最先端をいかに取り入れていったかということであり、自身の懐古趣味も相まって、歴史を調べ、それを偲ぶ縁(よすが)を辿りたいと思うようになりました。
偲ぶ縁といっても、大抵は当時を偲ぶものなど微塵も残っておらず、ただ月日の流れのような寒風がビョウビョウと吹き荒んでいることが多いのですが、北里柴三郎の生家を訪れた時のように、160年余の時を経ても変わらぬ風情に、遥か昔に思いを馳せることができるのも、この趣味の醍醐味であることは間違いありません。

今年も、医史跡を巡る旅にお付き合いいただければと思います。


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