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論語 №87 [心の小径]

ニ七八 子路、曾晳(そうせき)、冉有(ぜんゆう)、公西華(こうせいか)侍坐す。子のたまわく、わが一日なんじより長ぜるを以てわれを以てすることなかれ。居ればすなわちいわく、われを知らずと。もし或いはなんじを知らば、すなわち何を以てせんや。子路率爾(そつじ)として対(こた)えていわく、千乗(せんじょう)の国、大国の間に摂(はさ)まり、これに加うるに師旅(しりょ)を以てし、これに因(かさ)ぬるに饑饉を以てす。由やこれを為(おさ)めば三年に及ぶころおい、勇ありて且つ方を知らしめんと。夫子これを哂(わら)う。求よ、なんじは何如。対えていわく、方六七十、もしくは五六十、求やこれを為めば三年に及ぶころおい、民をして足らしむべし。その礼楽の如きは以て君子を俟(ま)たんと。赤(せき)よ、なんじは何如。対えていわく、これを能くすと曰(い)うにあらず、願わくはこれを学ばん。宗廟(そうびょう)の事もしくは会同に、端章(たんしょう)甫(ほ)し願わくは小相と為らんと。点よ、なんじは如何。瑟(しつ)を鼓すること希(まれ)なり。鏗爾(こうじ)として瑟を舎(お)きて作(た)ち、対えたいわく、三子者の撰に異なり。子のたまわく、何ぞ傷まんや、亦(また)各その志を甘うなり。いわく、莫春(ぼしゅん)のころ、春服既に成る、冠者五六人、童子六七人、沂(き)に浴し、舞ウに風し、詠じて帰らんと。夫子喟然(きぜん)として歎じてのたまわく、われは点に与(く)みせんと。三子者出ず。曾暫後(おく)る。曾暫いわく、かの三子者の言は如何。子のたまわく、亦各その志を言うのみ。いわく、夫子何ぞ由を哂うや。のたまわく、国を為(おさ)むるには礼を以てす。その言譲らず。この故にこれを晒えりと。ただ求はすなわち邦(くに)にあらざるかと。いずくんぞ方六七十もしくは五六十にして邦にあらざるものを見んと。ただ赤はすなわち邦にあらざるかと。宗廟会同は諸侯にあらずして何ぞ。赤やこれが小たらば、たれか能くこれが大たらん。

                法学者  穂積重遠
                                        
 これは『論語』中の一番長い一章だが、実に名文で、師弟の打ち解けた談笑が活き活きと描かれている。うしろに琴の音をあしらったところなど、『論語』の編者もなかなかの演出家だ。
 四人の門人の年齢は、孔子より若きこと、子路は九歳、曾哲は十二三歳らしく、冉有は二十九歳、公西華は四十二歳。曾暫は曾参(そうしん)の父、名は点。
「師」は二千五百人、「旅」は五百人の軍隊だが、ここで「師旅」とは戦争兵乱のこと。「穀の熟せざるを饑といい、武の熟せざるを饉という。」とある。「端」は「玄端」とて黒色の角張った礼服、「章甫」は礼冠。「莫」は「暮」と同じ。「冠者」は元服した者、年齢十八九ぐららいの青年。「童子」はまだ元服せぬ十五六歳までの少年。「舞ウ」は天を祭り雨乞をする築山。

 子路・曾暫・冉有・公西華の四人がお側に侍っていた時、孔子様が、「わしがお前たちより多少年上だからとて、わしに遠慮せずに物を言ってくれ。お前達は平生寄るとさわると、俺を知って用いてくれないから仕事ができないなどと不平を言うが、もしお前たちを知って用いてくれる人があったら、お前たちはどういう事業ができるつもりか、めいめいの抱負を言ってみたらどうじゃ。」と四人に問いかけられた。すると子路がイキナリ口を開いて無遠慮に、「魯・衛・鄭のごとき兵車千乗程度の諸侯の国が、斉・晋・楚のごとき万乗にも近い大国の間にはさまり、それだけでも形勢困難なところへ戦争が始まり、おまけに饑饉で食糧難が重なるというような国歩艱難な場合に、冉がその難局に当ってその国政を執りましたらば、三年たつかたたぬに、その人民の勇気を回復させ、かつ国民の義務をわきまえ、君国のために身命をなげうつようにさせてご覧に入れましょう。」と言った。例の子路らしい大言壮語なので、孔子様も思わず破顔一笑された。そして次には曾暫に問われるのが順なのだが、ちょうど二十五弦琴をひいていたのであと回しにし、冉求に向かって、「求よ、お前はどうじゃ。」とたずねられた。冉求は子路がえらそうな口をきいて先生のお笑いを受けたのを眼前に見ている故、大いに用心謙遜して、「千乗の国などとは及びもつかぬことでありますが、六七十里四方あるいは四五十里四方ぐらいの小国でありますならば、求がこれを治めて殖産興業に力をそそぎ、三年ほどのうちに人民の衣食を足らしめて生活を安定させることはできそうに存じます。しかし礼楽をもって民心を感化するというようなところに至りましては、私のがらにないことでありますから、盛徳の君子にお願い致さねばなりません。」と申し上げた。そこで孔子様が今度は公西華に向かって、「赤よ、お前はどうじゃ。」とおっしゃった。公西華は元来礼楽を志していたのだが、今冉求が礼楽は君子に待つと言ったばかりのところだから、私は礼楽の方を致しますとイキナリ言っては、自ら君子をもって任ずるように聞えて具合がわるい故、さらに大いにへりくだって、「私にできると申すのではござりませんが」勉強かたがた致してみたいと存じますのは、国君のご先祖廟のお祭または諸侯の国際的会合というような場合に、衣冠束帯で式部次長ぐらいのところを勤めさせていただくことでござります。」と言った。そこで最後に曾暫に向かって、「点よ、お前はどうじゃな。」と問われた。曾暫はその時右の問答を聞きながら二十五経琴をジャマにならぬ程度にポツンポツンとひいていたが、カチャンと音をさせて、琴を置き起立して、「私のは三君の抱負とはおよそ種類ちがいでござりますから。」と遠慮したところ「めいめいに思ったことを言うだけだから、何のさしつかえがあろうや。」と孔子様がおっしゃるので、「それでは申し上げますが、晩春の寒からず署からぬ好季節に、仕立おろしの春着をき、五六人の若い者や六七人の少年たちをつれて、沂水(きすい)のほとりの温泉に入浴し、舞ウの雨乞台でひとすずみして、鼻歌でもうたいながらブラプラ帰って釆とうござります。」と言った。すると孔子様がああと嘆息されて、「わしも点の仲間入りがしたいものじゃ」とおっしゃった。さtうぇほかの三人は引き下がって曾暫だけが残ったところで、曾暫が、「あの三人の申した」ことをえおう思し召しますか。」とお尋ねしたので、孔子様がおっしゃるよう、「めいめいの平成の志を言った次第で、いずれも適切なことと思う。「其れでは先生は何故冉をお笑いになったのでありますか。」「国を治めるには礼が根本なのに、冉の言葉には少しも礼譲の気味がないので、矛盾を感じてつい笑ったのだよ。」「それでは求のは国を治めるという抱負ではなかったのでござりますか。」「六七十里四方または五六十里四方でも、もちろん国に相違ない。求なら由と同じく千乗の国でも治め得るのだが、謙遜して小国の物質方面だけと言ったところが神妙じゃ。」「しかし赤のは国政ではござりますまい。」「イヤイヤ宗廟や会同は諸侯の重大事で、立派な国政だが、赤ならば十分につとめ得る。赤が式部次長と謙遜したら、誰が式部次長をつとめ得ようそ。」

 曾暫の悠々自適主義に対して孔子様が「与みせん」と言われたことにつき、いろいろ深遠らしい議論をする人もあり、あるいは「ゆるさん」とよんで「勝手にせよ」と言われたのだとする人もあるが、私はこう考えたい。孔子様は元来由や求や赤と同じ志をもっておられたのである。時利あらずしてその志成らず、天下後世からみればまことに仕合せなことだったが、孔子様としては、いわばやむを得ず教育と著述とに隠れざるを得ないことになられたのである。そこで今弟子たちが天下国家の志に燃えているのを見て、頼もしくもうらやましくも思われ、自身がついに曾暫に与せざるを得ざるに至ったことを、「喟然として」歎息されたのである。
 子路と冉有とが政治家として、また、公西華が外交官として適任であることは、既に孔子様が許しておられるところだ。


『新訳論語』 講談社学術文庫

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