西洋美術研究家が語る「日本美術は面白い」 №24 [文芸美術の森]
≪シリーズ≪琳派の魅力≫
美術ジャーナリスト 斎藤陽一
第24回: 尾形光琳「紅白梅図屏風」 その5
(18世紀前半。二曲一双。各156×172.2cm。国宝。熱海・MOA美術館)
第24回: 尾形光琳「紅白梅図屏風」 その5
(18世紀前半。二曲一双。各156×172.2cm。国宝。熱海・MOA美術館)
≪紅梅から白梅へ≫
これまで4回にわたって、尾形光琳晩年の作品「紅白梅図屏風」をじっくりと見てきましたが、前回では、「この絵は“日が沈んで間もない時刻の月が出た夜、その月光を受けてきらめく波と、薄暗がりをただよう梅の香りを表現したもの”ではないか」と申し上げました。そして、その背景を理解するためには、日本における「梅の花」の鑑賞方法の変遷を知っていたほうがよい、とも言いました。
では、わが国では、「梅」はどのような花として受け止められてきたのでしょうか?
よく知られていることですが、「万葉集」の時代には、「花」と言えば「梅の花」のことであり、「万葉集」には、梅が最も多く詠まれていました。
もともと梅は、中国から伝わった木であり、中国では「紅梅」の艶(あで)艶やかさが好まれたということもあって、わが国でも、中国志向の強かった時期には「紅梅」を尊重する気風があったようです。それは平安時代に入っても続きました。
ここでは、清少納言の『枕草子』の一節を挙げておきましょう:
ここでは、清少納言の『枕草子』の一節を挙げておきましょう:
「木の花は、濃きも薄きも紅梅」
(『枕草子』第37段)
しかし、やがて日本では、「白梅」の清楚な風情が好まれるようになりました。とともに、「花」の代表は「桜」に譲り、「梅」はそのほのかな「香り」をもって愛でられるようになりました。“清楚な白さ”という視覚の悦楽、“ほのかな香り”という嗅覚の快楽・・王朝人の感覚の尖鋭化が見て取れます。
たとえば、平安時代の歌集『古今和歌集』などでは、“梅の香り”が醸す情緒を詠んだ歌がたくさんあります。たとえば:
(『枕草子』第37段)
しかし、やがて日本では、「白梅」の清楚な風情が好まれるようになりました。とともに、「花」の代表は「桜」に譲り、「梅」はそのほのかな「香り」をもって愛でられるようになりました。“清楚な白さ”という視覚の悦楽、“ほのかな香り”という嗅覚の快楽・・王朝人の感覚の尖鋭化が見て取れます。
たとえば、平安時代の歌集『古今和歌集』などでは、“梅の香り”が醸す情緒を詠んだ歌がたくさんあります。たとえば:
「色よりも香(か)香こそあはれと思ほゆれ
誰(た)誰が袖ふれし宿の梅ぞも」(読人知らず)
誰(た)誰が袖ふれし宿の梅ぞも」(読人知らず)
梅はその姿よりも香りの方が愛おしい
庭の梅は、誰の袖が触れたためにかくも香(かぐわ)香しいのだろうか
庭の梅は、誰の袖が触れたためにかくも香(かぐわ)香しいのだろうか
同時に、梅の香りを楽しむには、「夜」こそふさわしいという美意識が生まれました。それも、白梅の花がおぼろに浮かび上がる「月夜」こそ情緒が深まるという、繊細な美学が生まれたのです。『古今和歌集』から、もう一首:
「月夜にはそれとも見えず梅の花
香(か)香を訪ねてぞ知るべかりける」
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
香(か)香を訪ねてぞ知るべかりける」
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)
月夜の梅は、月光にまぎれて見えにくい
だから、そのほのかな香りをたよりにすればいい
だから、そのほのかな香りをたよりにすればいい
かくして、“月夜に梅の香を愛でる”という美意識は、平安時代以降も、公家や文化人たちに継承され、江戸時代の教養人たちも“夜に梅を鑑賞する”ことを風流としました。
その生育環境から言っても、和歌や物語、謡曲などに造詣の深い尾形光琳は、このような伝統の流れの中にいたもの、と考えられます。
「紅白梅図屏風」が、“月夜にただよう梅の香り”を表現したのではないか、という見方には、このような背景があります。
その生育環境から言っても、和歌や物語、謡曲などに造詣の深い尾形光琳は、このような伝統の流れの中にいたもの、と考えられます。
「紅白梅図屏風」が、“月夜にただよう梅の香り”を表現したのではないか、という見方には、このような背景があります。
次回は、この絵に隠された主題についての大胆な説を紹介します。
2019-12-13 20:27
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