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浜田山通信 №256 [雑木林の四季]

藤川亨と高山英男

             ジャーナリスト  野村須美

 12月1日付の毎日新聞に「NY響く革命歌」という大見出しの記事が載った。何事ならんと読んでみると、<アライズ ヤ プリズナー オブ スタベーション(立て、飢えたるものよ)>の歌声がニュヨーク・マンハッタンの雑居ビルから流れたというのだ。六十歳より下の人たちはこんな歌は知らないだろうが、私の学生時代デモで歌う歌は<インターナショナル>だった。歌われなくなったのは中ソ対立が始まって世界の労働運動も分裂してからだろう。敗戦で皆が飢えていたし、革命もすぐそこだと若者や労働者は奮い立った。そんなことは別として、この労働歌やロシア民謡を5枚のCDに録音してくれたのは藤川亨だった。藤川は早大で一年先輩だったが、学生運動で捕まったりして、卒業は私より一年遅れた。ロシア語の原書を扱っていたナウカに入社。私と大学同期だった清水弘道、芝研三も同社に入ったが、ここもスターリン批判後、清水はナウカに残りのちに代表取締役になった。藤川は日ソ親善ツーリストに入り、のちにオホーツク旅行などにも出かけた。そのころ、毎日の先輩の吉岡忠雄さんも藤川のところでロシア語を勉強し、私も誘われたが外国語はあきらめているからと断った。
 藤川の関係で私にとっていちばん大きかったのは、92年に大学の仲間が「早稲田1950年資料と証言」を出し、その創刊号の巻頭に私が「埋め草にでも」と言って渡した「プチブル日和見分子の日記から」が掲載されたこと。題名はサブタイトルのつもりだったのだが、活字になった以上じたばたしても始まらない。そしてこれを熱心に押してくれたのが藤川だと後で判った。藤川自身にもいろいろあったが、時おり電話をくれたりして何かと励ましてもらった。彼がこの春だか夏だかに逝ったのは勝本英夫から聞いた。
 長い付き合いだったのは毎日新聞の同期入社だった高山英男君。彼はなぜか広告局に入ったが、横浜国大卒で、私が最初の赴任地が横浜支局だったので彼の家によく遊びに行った。横浜国大はのちに神奈川県知事になる長洲一二教授が有名で左派が多かった。広告なら入れるだろうと思ってのことだったかもしれないが、彼はまもなく退社し、教科書問題の対象になった中教出版へ行った。それから「こども調査研究所」を起こし、阿部進らと子供文化の調査研究を進めた。私も社会部で教育を担当したので渋谷と原宿の中間くらいにあった研究所にでかけたし、会社をやめてからも渋谷でお茶を飲んだ。2、3年前の暮だったか、彼の麻布十番のマンションの近くで火事があってテレビで放送しているので電話をすると、「すぐ近くだけど大丈夫。喘息はあるけど芝居は時々見に行くよ」と言い、再会を約した。夫人からの喪中葉書に「宝塚歌劇」を生涯愛した人でしたとあった。宝塚の生まれで育ち。たしか人形劇にも熱心だったなあなどと思い出そうとしても、まことに往時茫々どころかいまや昨日のことも思い出せない。

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