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医史跡を巡る旅 №67 [雑木林の四季]

「西洋医学事始・江戸の蘭学塾 其の壱」

            保健衛生監視員  小川 優

解体新書を翻訳した杉田玄白、前野良沢たちのグルーブも、最初は蘭学好きの集まり、勉強会でしたが、解体新書が世に出てそれぞれの名前が知れ渡るにつれ、彼ら自身を師として仰ぐ学究の徒が集まるようになりました。
知識、技術を閉鎖的に秘伝とすることを好まず、学成っても尚、討論し、他人から優れたことを吸収することで、更なる高みを求める蘭学の志士たちは、教えを求めるものを拒まず、各人の門人は増えていきました。最初は個人的な師弟関係でしたが、数が増えるにつれ、私塾という形をとっていきます。そして自ら学んだことを更に他の者に教えることで、樹状に連なる学派として、更に発展していきます。

杉田玄白は天真楼という私塾を開きます。良く知られている解体新書の表紙の序図にも、タイトルの下部に「天真楼」の文字が記されています。

「解體新書 序図」

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「解體新書 序図」 ~国立国会図書館デジタルコレクションより

門人帳も残っておらず、いつ頃に開塾したかもわかりません。また玄白自身が治療や翻訳に忙しく教育機関としてどこまで機能したか、あるいは天真楼とは杉田玄白の雅号、ペンネームであったという説もあります。しかし大槻玄沢、宇田川玄随など、玄白以後に蘭学に大きく貢献する蘭学者たちが、彼の元で学んだことは事実で、及ぼした影響は大きかったことは間違いありません。

大槻玄沢自身も紫蘭堂という塾を開いています。こちらも玄沢が加筆訂正した重訂解体新書の表紙に、「天真楼翻訳、紫蘭堂再鐈」と、名前が残っています。

「重訂解体新書」

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「重訂解体新書」 ~国立公文書館デジタルアーカイブより

長崎遊学後天明6年頃(1776?)に開塾し、門人帳には100名近い人名が記されていますが、すでに他の師の元で学んだ者は門人帳には記名しなかったそうなので、実際にはもっと多かったと思われます。また玄沢自身、火事で何度か焼け出されて転居を余儀なくされたようで、その都度紫蘭堂、その前身幽蘭堂も、京橋、木材木町、三十軒堀、京橋水谷町、木挽町、采女原、築地と場所を変えたようです。宇田川玄随・玄真、橋本宗吉など、その後の蘭学を背負う人々が彼の元で学びました。
玄沢は「蘭学階梯」(1783)の中で、翻訳方法としてまず単語を翻訳し、日本語の語順に置き換えて意味を解し、何度も熟読・暗唱すれば、やがて通じるようになると論じる一方、「蘭語ヲ悉ク倭語漢語トシテ読ントスレバ、却テ其義ヲ失フコト多シ」とも述べています。

寛政8年(1796)には、宇田川玄随・玄真も編纂に関わった江戸ハルマ(波留麻和解)が世に出て、蘭学を学ぶ者にとって大いに助けとなります。

紫蘭堂で学んだ宇田川玄真は、単純に洋書を訳しただけではなく、複数の医学書をまとめた著作「遠西醫範」、「醫範提要」「和蘭薬鏡」などを残しました。そして私塾、風雲堂を興し、自らの著作を教科書として後進の教育を行っています。

「醫範提綱」

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「醫範提綱」 ~国立国会図書館デジタルコレクションより

玄真は入門者に、まずオランダ語の基礎的な文法を学ばせたといわれます。単語を逐一訳していくより大意をつかみやすく、意味の分からない単語が一つあっただけで、その先に進めないということがなくなります。

風雲堂については、詳細についてあまり伝わっていません。ただし玄真に学んだ者は非常に多く、吉田長淑、坪井信道、緒方洪庵、川本幸民、箕作阮甫など後に蘭学者として名を残す者もいれば、在野の医師として地域に貢献した者もいました。

玄真にも学んだ坪井信道は、後に適塾を開き、維新の大立者を多く輩出した緒方洪庵の師の一人です。性格実直で、医者としての技量も高かったようです。治療マニュアルともいえる「診候大概」を記しています。

「坪井信道墓(誠軒先生之墓)」

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「坪井信道墓(誠軒先生之墓)」 ~東京都豊島区駒込 染井霊園

坪井信道
誠軒と号する。寛永7年(1795)美濃国池田郡、現在の岐阜県揖斐川町に生まれる。文政3年(1820)に江戸に出て宇田川玄真の元で学ぶ。文政12年(1829)江戸深川に安懐堂、天保3年(1832)江戸冬木町に日習堂を開き後進を育てる傍ら、診療所を開設し伊東玄朴、戸塚静海と並び江戸蘭方三大家と称された。天保8年には長州萩藩医に召される。嘉永元年(1848)、54歳で没する。
娘婿が坪井信良で、お玉が池種痘所の設立にかかわる。

「日習堂跡」

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「日習堂跡」 ~東京都江東区冬木 深川第二中学校

日習堂があった場所は深川、木場にほど近く、運河が張り巡らされた一角にあります。坪井信道の元で学んだ者には、緒方洪庵、川本幸民らがいます。緒方洪庵は江戸で苦学したようですが、そんな彼を受け入れたのが坪井信道でした。洪庵の適塾も堂島川の近くにあり、様子が似ています。若い頃の学びの日々が脳裏に浮かび、適塾の場所を決めたのかもしれません。

宇田川玄真の門人の一人、吉田長淑も後進を育て、顕著な功績を残しました。西洋医学、特に内科を積極的に取り入れたパイオニアの一人です。

「吉田長淑墓(天球院月心宗江居士)」

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「吉田長淑墓」 ~東京都文京区千駄木 養源寺

吉田長淑
安永8年(1779)、幕府同心の家に生まれるが、医師であった母方の祖父の養子となり吉田姓を名乗る。最初漢方を学ぶが、桂川甫周から蘭方医学を学び、次いで宇田川玄真の元で篤い指導を受ける。何度か養子の声が掛かり、一時的に大野姓、倉持姓を名乗るが、結局吉田姓に戻った。
それまでの蘭方医学は外科に偏っていたが、長淑は積極的に内科を取り入れて「泰西熱病論」を記し、入手困難な蘭方薬の代替品を含めて「蘭薬鏡原」をまとめ、治療を実践した。また蘭馨堂を開き、高野長英、足立長雋、桂川甫賢など多くの門人を排出している。特に高野長英に与えた影響は大きく、その名の「長」は師長淑にあやかっている。
師玄真が加賀藩主前田氏の治療により信任を得、出仕の誘いがあったが、玄真自身は多忙のためにこれを断り、代わりに弟子の長淑を推挙した。文化7年(1810)、江戸詰の加賀藩医となる。加賀藩主前田治脩大病の報に接し、急遽加賀に向かう途上で長淑自身病に倒れ、その間に藩主は没してしまう。病を押して加賀に辿り着くが、失意のうちに長淑も客死する。文政7年(1824)、享年47歳、脚気衝心であったという。

吉田長淑は金沢で客死した後、金沢市石引の棟岳寺に葬られました。もともと吉田家の菩提寺であった文京区千駄木の養源寺には、弟子たちによって供養のための墓が建てられたといいます。あまり下調べもせず養源寺を訪れたところ、墓地に案内板はあるものの、どうしても墓石が見つかりません。途方に暮れてお寺さんにお尋ねしたところ、快く墓所迄ご案内していただきました。墓石が傾き、墓域も荒れていたため、数年前に改葬したそうですが、本人かどうかはわからないものの墓石の下にお骨があったそうです。

「吉田長淑墓」

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「吉田長淑墓碑文拡大①」 ~東京都文京区千駄木 養源寺

墓石の裏には「駒込吉田先生」で始まる長淑の顕彰文が綴られています。

「吉田長淑墓」

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「吉田長淑墓不憫拡大②」 ~東京都文京区千駄木 養源寺

剥離のため、かなり読み辛くなっていますが、長文最後の方に「病」に倒れ、「金沢棟岳寺」に葬られたことが辛うじて読み取れます。

義に殉じ、江戸から遠く離れた地で倒れましたが、今では広く明るい墓域に、奥様ご子息(?)と並んで眠っています。


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