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いつか空が晴れる №73 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
     -夜のストレンジャー~シナトラと美空ひばり~
                  澁澤京子

小学校のとき、アメリカから転校してきたH君という男の子がいた。玄関の前に芝生の庭が広がっていて、まるでアメリカのホームドラマに出てくるような洋風のベランダのある家に住んでいて、お父さんは牧師さんだったから牧師館だったのだと思う。

H君は明るい性格で、ふつうの表情の時でも口角のきゅっと上がった、いつも笑っているような顔をしていて学校では人気者だった。誰とでもすぐに仲良くなって、誰に対しても親切で、しかし誰とも特に親しくもならない感じの男の子で、それはアメリカ育ちのせいなのか、お父さんが牧師さんだったからなのかはわからない。(H君の家にはいつも大勢で遊びにいった記憶がある)

私が子供の時、テレビでは、とにかくアメリカのドラマやアニメが多くかかっていた。
「パパは何でも知っている」「奥様は魔女」「わんぱくフリッパー」「サンセット77」・・アニメだと「ポパイ」「フィリックス・ザ・キャット」「ヘッケルとジャッケル」「ウッドペッカー」など。そして、私はバービー人形の着せ替えをして遊んでいた。クリスマスも近くなる頃には巷にはビング・クロスビーの「ホワイトクリスマス」なんかが流れていた。
アンディ・ウィリアムスショウもよくテレビで観ていた。中学の時は友人とプレスリーの映画を観に行ったのを覚えている。(プレスリーの死の直後に公開された映画だった)

しかし、私にとって最も「アメリカ」という感じがするのはフランク・シナトラ。マフィアとの関係や黒い噂を引きずりながらも、そんな陰をものともせずに明るく堂々とふるまってしまうところがいかにもアメリカという感じなのだ。
そして、シナトラというと、これだろうという感じで浮かんでくる曲は「夜のストレンジャー」
子供の時、この曲が好きだった。調べてみるとこの曲がヒットしたのは1966年。
ちなみにこの年に日本でヒットしていたのは美空ひばりの「悲しい酒」

シナトラが、一夜のアヴァンチュールを楽しく朗々と歌い上げている時、日本では「悲しい酒」がヒットしていたのだ。

・・ひとりぽっちが好きだよと
  言った言葉の裏で泣く・・・

一方、「夜のストレンジャー」はシナトラのプレイボーイ風の軽い雰囲気にとても似合っている曲と思う。あくまで、オープンで楽しくて明るいアメリカ、プールとシャンパン、アメリカンドリームのアメリカ。

それでは、日本の歌は暗い曲が多いかというと戦前はそうでもない。
戦前の日本には直輸入された音楽に翻案された日本語歌詞で歌われた、明るい曲が結構多い。エノケンの「南京豆売り」、抜群の歌唱力の二村定一の「私の青空」「洒落男」は明るい曲だし、淡谷のり子、ディック・ミネなどキューバやラテン風、ジャズがかなり定着していて、エノケンは、抜群のセンスでキューバ音楽もジャズも歌っている。エノケンという人はキューバのブエノビスタソシアルクラブの一員として歌っていても何の違和感もないような無国籍な容貌と雰囲気を持っている。当時は慶応、立教などの学生ジャズバンドも盛んで、特に慶応のレッド&ブルージャズバンドはプロ並みの活躍をしていたらしい。

歌謡曲、特に美空ひばりのような演歌独特の重さと湿っぽさが好まれるようになったのは、戦後になってからのような気がするのだ。
戦争がはじまって、ジャズの輸入が禁止されていたことも影響しているのかもしれない。
まだ焼跡が残っている戦後に大ヒットしたという「リンゴの唄」も決して明るい曲ではない。
・・リンゴは何にも言わないけれど
  リンゴの気持ちはよくわかる・・
戦後復興の明るい曲と言われているけれど、全体に翳りがある。そしてその独特の翳りは美空ひばりの古賀メロディにもつながっていく。邦楽の三味線のようなしっとりと落ち着いた情緒のある暗さというよりは、敗戦後の焼野原や闇市を連想させるような、荒涼とした感じと、何かじっと耐えているような暗さなのであって、エノケンの~狭い我が家も楽し~といった、おおらかさ、軽さとユーモアという日本人の心の余裕を、失ってしまったような翳りと暗さなのだ・・

科学の明るい未来を信じていた高度成長期に、美空ひばりの「悲しい酒」にじっと耳を傾けていた日本人。
アメリカ文化の明るさと、日本の演歌の情念。
シナトラと美空ひばり。ともに歌唱力抜群の二人。才能があるゆえに、ある時代の国民の無意識を反映させてしまうのかもしれない。


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