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梟翁夜話 №53 [雑木林の四季]

九九がなければ

                翻訳家  島村泰治  

秋はもの思ふ候と云ふが、この時期、ふとあらぬ思ひに耽ることがある。

「ほう、九二より二九の方が楽だな。」

他ならぬ九九のこと。二九の方が十八と云い易いと気づいて憮然とした一瞬だ。老化現象か。そう、幼い頃に叩き込まれた「ににんがし」と云ふ九九、あれは覚えた自覚がないのだが何時のまにか覚えていた。逆読みでもよし、九九と云ふ奴は老いても役に立っておるな、の実感。そんな素朴な発見から、ふと九九への思ひが広がった。

考へてみれば、日頃から数を操つるのに半ば無意識に九九を使ってゐる。それで大抵の数合わせをしてゐるわけだが、もし九九を知らぬか忘れでもしたら、些細な勘定に大いに手間どるだらうと、改めて九九の効用に気づく次第だ。

こんなことを思ひ出した。

アメリカ留学当時、1950年代のことだからその後様子が変わってゐればともかく、九九と云ふものを知らぬ学生があちこちにゐたことに気づいたときの違和感に似た印象を忘れられない。後年学んだことだが、英語には1種類の基数詞しかないことが大きく関係してをり、語呂合わせができないとのことで、九九の習得が容易でなくなってゐるらしい。ある物理系の学生が、日本語ながら朗々と九九を唱える私を感に堪えた風情で見守ってゐたのを覚えてゐる。

聞けば、九九の表などは知らぬと云ふ。個人差ではと問へば、そんなはずはないと云ふ。少なくとも表にして覚え、朗々と唱へるなぞは聞いたことがないらしい。それでも計算の現場ではtwo times four is eightと云ふのだから妙なことだ。

アメリカと云へば、買い物をして釣りをもらうとき妙な計算をすることにギョッとした覚えがある。2.75ドルの買い物で10ドル札を出したら、まずquarter(25セント )を返して「three dollars」と云ふ。さらにドル札を一枚ずつ「four, five ,six, seven, eight, nine,  and TEN!」と云って 「THANK YOU!」で勘定を締めた。

引き算をしないのだ。並みの日本人なら、この場合つり銭の7ドル25セントを予想しながら10ドル札を出すものだが、生活風習とは奇態なものだ。引き算ができなくても買い物ができるわけだが、どう云ふものだらうか。

さて、九九の話しは母とのある記憶にも繋がる。まだ元気だった頃、九九の話しをしてゐた母が、『学校で割り算の九九と云ふのを覚えたよ』と妙なことを云ふ。何だそれはと聞く私に『ニイチテンサクノゴ、ニシンノイッシン・・・』などと口走るではないか。割り算の九九を諳(そらん)んじてゐるのだ。不意を突かれて、割り算には九九はない、何かの間違ひだろうと云はうとして考へた。暗号のような口調だが確信あっての口ぶりだ。後年になり和算を知り関孝和を聞き知るに及んで、その時の得意げな様子が思ひ出されて懐かしかった。

物の本によれば、「二桁の九九」と云ふのもあって、ヨーロッパなどでは十二進法の名残で12×12までの乗算表を学んでゐたと云ふ。
また、ドイツ語圏では大九九 (großes Einmaleins) と呼ばれる20×20までの掛け算をまとめたものもある。さらにインドでは、最低でも1×1~20×20、最高では1×1~99×99まで学ぶと云ふ。流石はゼロを発見した国だけのことはある。

端(はな)にも触れたが、さるほどに重宝な九九が昨今は使うのに手間取ることが多くなってゐる。脳みその経年劣化と云へばそれまでだが、7桁辺りから逆読みして確かめる手間が掛かるようになってゐるのだ。たとえば、87・56を確かめるのに78・56と逆読みするというひと手間だ。92などは29と唱えて安心するなど、検算と云へば格好がいいが、だうやら老化の兆しとも思へる。

どちらにせよ、これからの年月、陰に陽に九九の世話になるだらうが、その効用が萎えることはなからう、と改めて九九の有り難みを噛みしめる昨日今日だ。


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