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論語 №86 [心の小径]

ニ七七 子路、子羔(しこう)をして費(ひ)の宰(さい)たらしむ。子のたまわく、かの人の子を賊(そこな)わん。子路いわく、民人あり、社稷(しゃしょく)あり、何ぞ必ずしも書を読みて然る後に学と為さん。子のたまわく、この故にかの佞者(ねいしゃ)を悪む。

                   法学者  穂積重遠

 「社」は土地の神、「稷」は穀物の神、そこで「社稷」といえば国家のことになる。

 子路が李氏針の執事だったとき、おとうと弟子の子羔を季氏の私領の費の代官に推挙
しようとした。そこで孔子が、「勉強ざかりのあの若者を害することになろうぞよ。」と注意された。ところが子路が、「治むべき人民もあり、祭るべき社稷の神もある。それを教科書にして実地の政治をするのも学問であります。何も書物を読むだけが学問ではござりますまい。」と言ったので、孔子様がおっしゃるよう、「これだからわしは口巧者(くちこうしゃ)なやつがきらいじゃ。」

 書物を読むだけが学問ではない、ということは、孔子様自身が常に言われるところなのに、子路がそれを言って何故しかられあのであろうか。元来、費は住民の気持が洗い有名な難事の処であり、子羔は前に「柴(さい)や愚(ぐ)とあったようなばか正直者で、若輩でもあり学問修養も未熟なのだから、そういうヤッカイな土地を受け持たせては、本人のためにもならず、人民のためにも宣(よろ)しくない、と心配されたのである。子路は全く子羔を引き立ててやろうというだけの気持ちで、そこまでは気がつかなかったのだから、なるほどそうでござりましたと言えばいいのに、負け惜しみの強弁をしたものだから、えらくしかられたのである。

二七九 顔淵(がんえん)、仁を問う。子のたまわく、己に克(か)ちて礼に復(かえ)るを仁と為す。一日己に克ちて礼に復れば天下仁に帰す。仁を為すは己に由る、人に由らんや。顔淵いわく、請(こ)うその目(もく)を問わん。子のたまわく、非礼視るなかれ、非礼聴くなかれ、非礼言うなかれ、非礼動くなかれ。顔淵いわく、回、不敏と雖も、請う斯の語を事とせん。

 本章は「克己復礼之章」とて、『論語』中でも特に有名な本文である。「克己復礼」は古語らしい。「礼にあらずんば視ることなかれ」とよむ人もあるが、格言としては言葉の短い方がよい。

 顔淵が仁とは何かをおたずねしたのに昼対し、孔子様が、「おのれの私に打ち勝って先王の定めおかれた札の大法則に立ち帰るのがすなわち仁である.いったん『己に克ちて礼に復る』ことができれば、天下がその人徳に帰服するであろう。しかして仁をなすかなさぬかは、克己復礼をするかせぬかの自分次第のことじゃ。他人事であろうや。」とおっしゃった。そこで顔淵がさらに進んで、「どうぞその細目をうかがわせてくださりませ。」とお願いしたので、孔子様が、「礼にかなわぬことを視るな。礼にかなわぬことを聴くな。礼にかなわぬことを言うな。礼にかなわぬことで動くな。」と教えられた。顔淵が感激して申すよう、「回はおろか者ではござりますが、どうかこのお言葉を一身一生の仕事に致したいと存じます。」

 「なかれ」は「勿」の字が書いてあるので、これを「四勿」の教えという。また「視ざる、聴かざる、言わざる」のいわゆる「三猿」も、ここから出たのかもしれない。


『新訳論語』 講談社学術文庫

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