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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №17 [文芸美術の森]

 「家を壊す気ならおれを殺してからやれ!」

                  早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 高度成長期の日本にとって六〇年代の大きな出来事は東京オリンピック(一九六四)である。その準備への着手はすでに五〇年代から始まり、青山通りの道路拡張工事とともに高島さんのアトリエからの立ち退き催促が始まっていた。かれが立ち退く様子を見せないので、都の行政機関が強引に建築物の解体にのりだした。足に脚絆をまいた労務者がツルハシを持参して、問答無用とばかりアトリエの入り口から取り壊しを始めた。画家はツル
ハシが振り下ろされる場所に座りこみ、「家を壊す気ならおれを殺してからやれー」と言った。私がアトリエを訪れると高島さんはその場所を「ここだよ」と示してくれた。労務者の困惑した顔が目に浮かぶようだ。
 しかし、画家は稚気満々の気骨の人である、と笑って済ませられない問題がここにはある。地位も資産もない裸の高齢者がどこへ立ち退けばよいのか。現在と同じく政治と社会が老人に対する人道的な配慮を欠いていた。

 青山のアトリエからの立ち退き問題が解決したので、土地探しが始まった。
 私の知り合いの紹介で小田急沿線の向ヶ丘遊園に出かけたが、仰ぎ見るような高い場所だったので住居には向かなかった。中央線で深大寺付近を訪れたときは、蕎麦を食べて甘酒をたしなんだ。「印象探し」とのメモを私は残している。飲酒を断っていた画家には甘酒が好物だったようだ。
 結局、アトリエにふさわしい土地は見つからず、一九六〇年六月に画家は小田急沿線の喜多見に仮住まいのアパート喜楽荘を借りた。青山のアトリエから絵や、身のまわり品を車で運ぶために、私は友人と何度も打ち合わせをした、と私の日誌にある。
 喜楽荘からも高島さんといっしょに土地探しを再開し、浅草で画家と待ち合わせ、千葉県内の土地を見てまわった。四日後には西武池袋沿線の狭山ケ丘に行った。その日、七月十八日の日誌には三十歳の私が「いろいろと土地を見る。疲れた」と記しているのに、七十歳の高島さんには疲労のようすがなかった。
 私は疲れなどものともせず高島野十郎を狭山ケ丘のさらに奥、飯能や秩父の麓にでも土地探しを提案すべきだった。もし私の生活圏内によりちかい東京の西郊に、画家があのときアトリエの土地を見いだしていれば、かれも、そしてとくに私の生活は大きく変わっていただろう。画家をとおして私は秩父の巡礼地を早く知り、山歩きを選んだにちがいなかった。もっとも東にいても西にいても、「近郊」都市の出現、団地の造成から逃れること
はできなかったかもしれない。
 私は高島さんとの出通いの場所が秩父であったことの意味を悟らなかった。つまり自宅から電車で一時間と少々の秩父に札所三十四ヶ所の巡礼地があるのに気づかず、気にもとめずに過ごしてきた。山で遇ったとき、スケッチブックを小脇にした背広姿の高島さんがスマートだったので、巡礼と高島さんのイメージが結びつかなかった。
 ところが画家は昭和四十一年(一九六六)九月、七十六歳で秩父の札所を巡礼している。「西本年譜」によると野十郎は昭和四十二年(一九六七)の五月には小豆島の巡礼地を、そして方々の。巡礼地には各宗派の社寺が点在していて、自ずと決まった順路を白装束姿でたどり、札所ごとに印を押してもらう。旅や山歩きで、高島さんの足腰は鍛えられ、しっかりしていた。高島さんから巡礼地の話は聞いたはずだが、耳を素通りしたようだ。私は近くの清瀬の禅寺にかようようになっていた。
 いまは観光地となった札所めぐりも、当時はひとつひとつの目標を探しながらの緊張を要する数日もの旅だった。野十郎はどんな服装で、どんな心境で、単なる山歩きや絵のスケッチとはちがう身体的行動に出たのであろうか。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社

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