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医史跡を巡る旅 №66 [雑木林の四季]

「西洋医学事始・蘭学事始夜明け前」

                   保健衛生監視員  小川 優

蘭学事始前の蘭学というと言葉遊びのようですが、青木昆陽以前に西欧からの情報が全く伝わっていなかったかというとそんなことはなく、鎖国前の技術が細々と継承されたり、出島商館を通じて限られた人たちに知識がもたらされていました。

医学に関して、初めて日本に西洋医学を持ち込んだのはポルトガル人のルイス・アルメイダだといわれます。アルメイダについては、大分篇、天草篇でそれぞれ取り上げています。

「西洋医術発祥記念像」

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「西洋医術発祥記念像」 ~大分県大分市大手町

天文21年(1552)に日本を訪れたアルメイダは、大分に日本初といわれる洋式病院を作ります。

「アルメイダ記念碑」

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「アルメイダ記念碑」 ~熊本県天草市船之町

彼を派遣したイエズス会は日本での布教を重視し、治療行為を禁止したため、アルメイダは病院を閉鎖、九州各地を布教して回ったのち、天正11年(1583)に天草で没します。

その後のキリシタン弾圧により、南蛮貿易も衰退し、書籍や医薬品を含むヨーロッパからの輸入品も途絶えることとなり、せっかく芽生えた西洋医学の息吹も絶え絶えとなりますが、皮肉なことに棄教した、いわゆる転びキリシタン、転びバテレンによって辛うじて命脈を保ちます。この流れを南蛮医学と呼びます。

「沢野忠庵・杉本忠恵墓」

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「沢野忠庵・杉本忠恵墓」 ~東京都台東区谷中 瑞輪寺

沢野忠庵(クリストヴァン・フェレイラ)
天正8年?ポルトガル出身。イエズス会司祭として慶長14年(1609)来日し布教に努める。しだいにキリスト教弾圧が厳しくなり、徳川家康が慶長18年(1614)禁教令を発布、寛永10年(1633)長崎で捕縛され、拷問により棄教する。日本名を名乗り、その後はキリシタン弾圧に協力する傍ら、医学書「南蛮流外科秘伝(阿蘭陀外科指南)」を記し、西洋医学を日本に伝える。慶安3年(1650)死去。

杉本忠恵
元和4年(1618)生まれ。沢野忠庵に南蛮医学を学び、忠庵の娘と結婚する。寛文6年(1666)に将軍徳川家綱にお目見え、寛文10年(1670)米200俵を給せられる幕府医官となる。元禄2年(1689)72歳で没する。以後杉本家は南蛮流外科の幕医を勤め、奥医師として法眼に叙される。

沢野忠庵に学んだ者には、杉本忠恵のほかに西玄甫、半田順庵がいます。
西玄甫(?-1684)は通訳の家系で、自身も大通詞を勤める傍ら、南蛮流外科医として幕府医官となります。彼を始祖として、西流外科が興ります。
半田順庵については、その経歴がよく伝わっていませんが長崎で開業していたようです。彼の元で吉田自休(?-1694)が学び、吉田流外科を興します。吉田自休の弟子で、養子となった吉田自庵(1644-1713)は後に幕府医官、法眼となります。また同じように吉田自休の元で学んだ村山自伯(1647-1706)もまた幕府医官になっています。

寛永16年(1639)江戸幕府は鎖国令を発布、スペイン、ポルトガルと断交し、以後は貿易相手国をオランダのみとすると、南蛮流外科は次第に紅毛流外科、または阿蘭陀流外科と名を変えます。寛永18年(1641)には長崎出島にオランダ商館が移され、出島を通じない貿易は禁じられるようになります。そうすると西洋医学の伝搬は出島の商館付き医官、そして唯一オランダ語を解する通訳を介するルートのみとなります。

慶安2年(1649)、新たに商館長ブロウクホルストと共にドイツ人医師カスパル・シャムベルゲルが出島に着任します。特使に随行して江戸に派遣されたカスパルは、同じく随行した大砲の砲手や商務官ら三名とともに、特使と別れ数か月間江戸に滞在し、知識と技術を伝授するよう幕府から命じられます。この間幕府要人の治療に当たり、優れた治療効果を認められるのです。カスパルは帰国するまでに、彼に接する機会のあった日本人通訳に医学を授けます。この流派は、紅毛流外科の中でもカスパル流外科と呼ばれています。カスパル流外科には猪股傳兵衛(?-1664)、向井元升(1609-1677)、河口良庵(1629-1687)らがいます。

猪股傳兵衛はカスパルについて江戸に赴き、長期の江戸滞在中も通訳を務める傍ら、その治療法を学びました。ただその後商館長の持参献上品の横流しに関わり、通訳の職を罷免されています。
向井元升は幕命で商館医ヨレアン(ユリアン)に学び、「紅毛外科秘要」を記したといわれます。後年京都に移り住み、貝原益軒とも親交がありました。
河口良庵はカスパルから直接学んだ記録はありませんが、通詞の家系河口家の養子となり、医学を学び「外科要決全書」をまとめています。京都、大洲と移り住み、それぞれの地で紅毛外科を広めました。のちに河口家は下総国古河藩の藩医となります。

少し時代が下り、同じように西洋医学の知識を持って活躍した日本人通訳としては、楢林鎮山(1649-1711)、吉雄耕牛(1724-1800)が挙げられます。

楢林鎮山は商館医ホフマンに学びました。以後子孫は楢林流外科として通詞の家系と別れ、五代目宗建はシーボルトに師事しています。
吉雄耕牛は商館医ツンベリーに学び、カピタン江戸参府にもたびたび同行、江戸蘭学の勃興に大きく貢献しました。前野良沢、杉田玄白とも親交があり、解体新書にも序文を寄せています。

これらの流れとは別にもう一派、栗崎流外科があります。天正2年(1574)に9歳でルソンに渡り、外科を学んで帰国した栗崎道喜(1566-1649)が創唱したものです。栗崎道喜の孫にあたる栗崎道有は幕医として、忠臣蔵で有名な吉良上野介義央が殿中刃傷沙汰の際、治療に当たったとして有名です。

オランダ商館付医師および日本人通訳が主体となる紅毛流外科は、自ずと長崎が主流となります。青木昆陽を始まりとした蘭学はまずは江戸で興り、やがて京都、大阪でも広まっていきます。紅毛流外科と蘭学との大きな違いは、「語学を学び、知識を共有する」点にあったのではないかと思います。
紅毛流外科は、まるで武芸のように〇〇流と名乗っていることからわかるとおり、子弟制を厳しく守りました。入門に当たって血判状を取り、学んだ内容は門外不出で、公表したり、広めたりすることを厳しく制限しました。ほとんどの場合、流派の始祖自ら術法を記すことなく秘伝としていたため、現代に伝わっているのは弟子たちが記したノート、あるいは写本のみです。そして修行の終わりには、師匠が免許皆伝の証を出しました。幕末になってもなお、紅毛流外科の血を濃く引く華岡青洲の華岡流では秘法を漏らしたとして、破門される門人がいたほどです。公儀の禁制のせいばかりではなく、この医術としての学問の閉鎖性が、紅毛流外科が広まらなかった大きな理由ではないかと考えられます。
一方、蘭学では多くの場合に開かれた私塾の形をとり、塾生は同時に複数の塾に通ったり、塾を渡ったりすることが行われました。このことが、多くの人に蘭学が広まり、免許皆伝に満足せず、切磋琢磨してお互いを高め合う風潮を生んだのではないでしょうか。


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