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梟翁夜話 №52 [雑木林の四季]

 玉蒟蒻考

                翻訳家  島村泰治

何故かはしかと分からぬが、どうやら蒟蒻は私の好物で、おでんでも白滝でもさしみでも、膳に蒟蒻が出ると真っ先に箸をつける。箸休めには格好、おのれの味がないのがミソで、生醤油の潔さ、田楽味噌の重厚、甘辛白滝の麺風な趣き、どれもいい。

しかとは分からないが、蒟蒻を好む理由がメタボ対策ではないことは確かだ。盛りには80キロを越へていたにせよ、痩せやうと蒟蒻に走った記憶はないからだ。蒟蒻が気に入る理由は他にある。捻って云へば、そのものは無味な蒟蒻は、これぞといふほかの味を運ぶ『具』として格好な食材だからだ。カナッペでキャビアを載せるクラッカーにやや似て、肝心の「味」(キャビア)を食わせる皿のような存在だ。が、塩気がないだけ蒟蒻の方がまともで、蒟蒻はどんな味にでも染まって食味を高める業師だ。

何より、蒟蒻は安価だ。白滝など店で小袋一つ80円ほど、肉じゃがに絡めれば肉の味を取り込み、ジャガイモに纏わり付いて芋の味が迫り上がる。二袋も入れてくれれば、白滝そものものが結構な「一品」になる。白滝はすき焼きの友だ。他人様はいざ知らず、私はすき焼きなら肉はほどほど、焼き豆腐と葱と白滝で満足する。肉汁を取り込んだ白滝と葱で箸ごとに飯が旨い。

味噌田楽は蒟蒻の正念場だ。味噌をあれこれ換へてはおでんを喰らう。これは小粋なグルメだ。味噌は八丁に限ると他人様は云はれるが、そんなこともない。歯切れのいいおでんならば、なめ味噌風の田舎味噌を田楽仕立てで喰らうのはちょっとした醍醐味、ただしこれはおでん次第だ。

おでんの蒟蒻は、じっくり煮込んだものに限る。寒夜に街角でつまむおでんの味は、流石に家では出せぬ。炊き直した汁の味とおでんの煮込み加減がそもそも違ふからだ。おでんなら、私は蒟蒻と昆布、それに大根に限る。そういへば、大根と蒟蒻は双子のやうで、他の具材の味を載せ分けてなかなか粋だ。

さて、蒟蒻には名産地があちこちにあるが、最たる処が群馬であることには異論がない。先ず群馬、次いで栃木、茨城と関東に集中してゐる。が、蒟蒻の消費地となればこれは東北、山形、秋田、岩手が三傑で、トップの山形では蒟蒻の消費量が東京の24倍といふから恐れいる。

山形の蒟蒻は俗に「玉こん」と云はれる逸品で、これには私は強烈な思ひ出がある。何年か前に芭蕉の山寺から脚を伸ばして某温泉で宿をとった、その折のことだ。宿の夕餉を愉しみにいたのは道理だが、とある仕掛けに鍋一杯の玉こんが山ほど煮込まれており、食い放題だと云ふ。蒟蒻には眼がない私は早速一、二個試し食ひをする。

ここだけの話だが、私は山形の玉こんをしげしげ食したのはこれが初めてだったのだ。丸い蒟蒻はほかでも食ってはいたが、あの鍋の玉こんは、歯応へから喉越し具合が別種に思へたのだ。歯が無碍に弾まない、程良い歯触りで噛み切れる感触はそれまで経験したことのない、真新しい食感だった。恥ずかしながら、夕餉を前に私は鍋の玉こんを十数個平らげた。食い放題とは云へどうかと思はれるほどの不作法だ。その後の夕餉に何が出たか、何が旨かったかなどの記憶はとんとない。

店でまるい蒟蒻玉を見ると今でも眼が留まる。思ひ出したように買っては見るが、どれもあの時の玉こんとは似ても似付かぬ代物ばかりだ。山形くんだりまで行って、あの宿へ行かねば食へないとなれば、玉こんはとんだ罪作りな食い物である。

今朝、わが庵近くの「全国ふるさと祭り」なる催しに愚妻が出向き、山形の玉こんを仕込んで来てくれた。早速試し食いをしたが、折角の玉こんを煮込み過ぎたか、とてもあのときの玉こんに思ひを馳せるには辛すぎた。やはり旨いものは記憶に留めて置くに限るのかも知れない。


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