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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №16 [文芸美術の森]

第四章 高島さんの言行録 2

           早稲田大学名誉教授  川崎  浹

「いまベトナムで起こっていることも慈悲のひとつなのです」

 たまたま高島さんと出遇った年に私は座禅を始め、年末には鎌倉の寺で接心に参加した。やがて画家は禅宗の教本やゲを葉書や手紙に書いてよこした。その文字に独特の風格があったので、私はこれを黄色くなるまで柱や壁に鋲でとめて、その傍らで座禅を組んだ。画家は昔、兄字朗に従って久留米の梅林寺で座禅を組んだことがある。また禅宗のみならず相当の経典に通じていた。
 高島さんは空海の『十住心論』(『秘密漫茶羅十住心論』の略称)に例をとりながら、私に説明した。人間の心は見るも浅ましい最初の段階から人間としての自覚、さらに善なるもの、真なるものを指向して上の段階に上がってゆくが、禅は上から三番目くらいの所にあり、それを「走」と名づけている。最上の第十段階にあるのは「慈悲」であると。
 「慈悲」という言葉を高島さんはこういうふうに使った。昭和四十年(一九六五)から四十七年(一九七二)まで私たちは苛烈なベトナム戦争と、ナパーム爆弾と枯れ葉作戦による住民の犠牲から目をそらすことができなかった。ところが高島さんはこう言って私を驚かせた。「いまベトナムで起こっていることも慈悲のひとつなのです」。これは画家の無関心ではなく、現実に起こっていることへのひとつの見方を示している。
 野十郎は兄字朗の影響をうけて禅の修行に従った時期もあったが、その後多くの経典を読んで、『三論玄義(さんろんげんぎ)』『大乗起信論』、『十住心論』にたどりつき、すでにいつ頃からか兄の禅宗に対しては、私に言ったのと同じ批評的な態度をとっていたことは明らかである。

野たれ死にの意味を込めた名前

 若い頃の野十郎は「やじゅう」のように「あばれてやろう」という気でいたと言う人もいるが、私と出会った頃の画家は、「人間、六十歳を過ぎねばだめだ」と言って、若い私に首をかしげさせたことがある。そのとき画家は六十歳をこえていたので、自信をもってそう言うことができたのだろう。しかし年齢は六十歳でも七十歳でもかまわなかったはず。
 ただこう言いたかったのだろう。過剰な力は必ずしもものを見る眼を研ぎすまさせてはくれない。高齢者は重力以上に重い死に向かって吸引されている。このゆっくりと浸蝕する無力化への引力を逆に利用して、自分の生命力の減退とともに減少するはずの貧(むさぼ)り、瞋(いか)り、痴(おろ)かさの欲望をコントロールすることができる。
 高島さんといっしょに上野公園を散歩しながら、寛永寺の正門まできたときのことである。画家は憤怒の形相凄まじい不動明王を指し、こう言った。「ほんとうの力とはあんなむき出しの猛々しさにあるのではない」。
 ただし不動明王の名誉のためにつけ加えれば、明王とは密教にだけある守護神で、修行する行者を(多くは山岳の)みちびき守り、つき従ったので、こうして寺門で祀られている。
 こういうわけで、おそらく野十郎は自分の呼び名をより雅(みやび)な響きをもつ「のじゆうろぅ」に代えたのだろう。私と知りあった頃の高島さんは、自らを「のじゆうろう」と称していたので、私は野十郎と書きながらも、頭のなかではつい「のじゆうろう」と発音するくせがついてしまった。もともとは本名の弥寿(やじゅ)に、長兄の詩人宇朗の末尾をくっつけて野十郎(やじゅうろう)としたのだが、本人によれば「のじゆうろう」には野たれ死にの意味もこめられているので、これはこれで捨てがたい趣がある。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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