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ケルトの妖精 №15 [文芸美術の森]

バンシー 2

            妖精美術館館長  井村君江

 月も隠れた暗闇のなかをしゃにむに鞭を当て、馬車がぐんと速度をましたそのとき、両手を打ち鳴らすような音がはっきりとみんなの耳を打った。つづいてとぎれとぎれに垣根の向こう側から、馬車と一緒に走りながら発しているかのような叫び声が聞こえてきた。
 生きた心地もない一行は、それでもバーク氏の弟の屋敷へ入る脇道の手前までたどり着き、御者は左へ曲がって並木道へ入ろうと身がまえた。そのとき突然、雲間から月が輝き、闇が晴れて目の前の光景がみんなの日にありありと映った。
 背の高いやせぎすの女が、帽子も被らず、豊かな髪を肩に波打たせ、ゆったりとしたマントを羽織ってでもいるような、またはただの大きな布を身にまとってでもいるかのような姿で、立ちはだかっているのだ。女はバーク邸への脇道へ入る角に立って、左の手でスプリング・ハウスの方角を指し示し、右の手は手招きをするしぐさをしていた。
 急に現れたその人影に怯えて、馬も歩みを止めてしまった。
 女はそのまま三十秒ほども立ちつくし、心臓を突き刺すような叫び声をあげつづけていた。それからいったんすっと姿を隠したが、こんどは並木道のほうに現れ、なおもスプリング・ハウスの方角を指し示しながら、馬車がバーク邸への脇道へ入るのをこばむようなしぐさを見せていた。さっきまで叫び声をあげていたその人影は、いまやまったく押し黙り、風にひらひら舞っていた服もぴったりとその身体をつつんでいた。
 「リアリー、スプリング・ハウスへやっておくれ。この世のものか、あの世のものかわからないけれど、もうあの人をいらだたせるのはやめましょう」
 マリー夫人が御者に告げると、御者も恐怖の日を見開きながらうなずいた。
 「奥さま、あれはバンシーですよ。この命にかけても、いまはスプリング・ハウスへ急ぐべきですぜ」
 一行はみんな、そのときスプリング・ハウスのチャールズの邸宅で、なにか不幸な出来事が起きていることを感じていた。バンシーがこんなにも人を急かすのは、それ以外になかったからである。
 馬車がスプリング・ハウスへ向かって走りはじめると、いままで人影を照らしだしていた月がとつぜん雲に隠れ、あたりは何も見えない暗闇になってしまった。しかし、前方から手を叩くような音が響きつづけて馬車をみちびき、御者が方向をつかんだころには、やがてその音もしだいに遠のいて消えていった。
 一行が、疲れ果てた馬になおも鞭打ち、悪路を急ぎに急いで、スプリング・ハウスのチャールズの邸宅へ着いたのは、夜中の十一時ごろのことだった。
 そこでマリー夫人たちに告げられたのは、チャールズの生命に希望の光がもはや射していないということであった。門番がチャールズが危篤であることを告げただけでなく、玄関の扉を開けてくれた召使の顔も、同じことを語っていた。
 チャールズは三年前と同じようにベッドに横たわっていたが、あきらめきった表情のなかにも、微笑みを浮かべ、快活でさえあった。
 「ぼくは病気で不思議な目にあったあの三年前から、もう心の準備はできていました」
 みんなの嘆きと悲しみをよそに、チャールズは、これからちょっと気楽な旅に出かけるところだというふうにおだやかだった。
 その夜のうちに、チャールズは息をひきとった。

◆ これはチャールズが死んだその夜、一七五二年十月二十日(日曜日)付けで、マリー夫人の娘のひとりが書いた手紙の要約である。マリー夫人と娘たちは、バンシーが長い髪を垂らして木の下にうずくまっていたり、死衣に身をつつんで泣きながら空を飛び、親族の宿命を告げ知らせたりするという言い伝えは知っていたが、この旅ではじめてほんとうにバンシーと出会ったのだった。
 この以前、一七世紀にはバンシーがオプライエン家に現れた記録がある。
 オプライエン家に滞在していたファンショー夫人は、ある夜、白い服を身にまとった赤髪の青白い顔の女が、月の光に照らされて窓の外からのぞきこんでいるのを見た。かぼそい息というよりも風の音に近い音でため息をついて消えてしまったというが、その晩オブライエン家の当主は死んだ。
 問わず語りに語るその妻の話によると、むかし先祖のひとりが、身籠もった女を殺して川に投げこんだことがあったという。そしてオプライエン家の代々の当主が死にかけると、その女が現れるということである。
 バンシーは名門の家の守護霊なので、アイルランドでは主にオサリバンとかオハラ、オプライエンといった、領主または貴族の称号である「オ」のつく家の人のところに現れる。だから庶民は安心である。
 バンシーは高貴な人の死を告げ知らせるが、緑の服の上に灰色のマントを着てすらりとしている。若くして死んだ美しい処女とされている。これは恐ろしい存在を美化することで、その恐怖を和らげようとする人々の気持ちがはたらいているのだろう。
 偉大な人が死ぬときにはおおぜいのバンシーの泣く声(キーニング)が夜空に響くともいう。
 オプライエン家のバンシーはあきらかに幽霊で、バンシー(ゲール語・バンは女、シーは土塚・丘。丘に住む女の妖精)には妖精と幽霊の重なりが見られることになる。
 ケルトの神話のなかでは老婆のバンシーが血に染まった兜や鍵を流れのほとりで洗って英雄ク・ホリンの最期のときを予告している。
 アイルランドには国のシンボルが四つある。ひとつはシャムロック(ミニ・クローバー)そしてアイリッシュ・ハープ (ミニ・ハープ)、あとのふたつは妖精で、片方靴屋のレプラホーンと死の予言者バンシー。ケルトの世界観をいまも受け継ぐアイルランドならではのものである。
 スコットランドではベン・ニーがバンシーに当たり、「水辺のすすぎ女」「悲しみの洗い手」ともいわれて、さびしい小川で瀕死の人の死衣を洗っている。たずねるとその衣を着ていた人の名前を教えてくれるという。親族のだれかが急死するのを死装束を洗って知らせる、死の予言者になっているようだ。
 バンシーは人や家族につく守護妖精でもあるので、死を告げ知らせるばかりでなく、生きている人、とくに家長が赤ん坊のときには、その揺り寵の番をしたり、チェスの駒の動かし方をそっと教えてくれたりもする。恐ろしいだけでなく親切な面ももっているのだ。
 一方では、醜い放くちゃの老婆で、長い歯をして鼻の穴はひとつ、垂れ下がった乳房をしているともいわれる。その乳房を吸うことのできた大胆なものはバンシーの養子になったと認められ、三つの願いがかなえられることになっている。

『ケルトの妖精』 あんず堂

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