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雑記帳2019-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-11-15
◆人形町に鯨を発見! ひさびさのお江戸街歩きは小伝馬町から人形町です。

小伝馬町はかって牢屋敷のあったところです。傳馬とは馬の乗り継ぎの意味。駅にあたります。慶長18年(1613)から260年間、小伝馬牢屋敷は全国最大の牢屋でした。江戸に牢屋は浅草、品川、石川島にもありましたが、小伝馬は最も劣悪な環境だったといわれています。刑死者が年間300人ほどだったのに対し、牢死者は1000人もいたのです。大牢、21間牢、女囚牢、あがりや、あがり座敷など、牢の中でも身分で分けられました。
安政の大獄では、吉田松陰、橋本佐内など多くの有意の若者が獄にくだりました。
高野長英は牢の過酷な環境を逃れるため、火事で切り離しになったあと、6年もの間、逃亡生活を送ったことは、作家吉村昭の小説「長英 逃亡」になったほどです。
2618坪の小伝馬牢屋敷は明治8年(1898)市ヶ谷に東京監獄ができるまで続きました。

牢舎が廃止された跡に大安楽寺がたっています。
寺名は土地を寄進した大蔵喜八郎と安田善次郎の名をとってつけられました。境内の江戸八臍弁財天は北条政子以来の信仰をあつめる弁天様で、その隣には「江戸傳馬町牢御椓場跡」と赤くほられた碑も見えます。ここは首打ちの場所だったのです。
牢屋敷の責任者である囚獄(牢屋奉行)は石出帯刀であり、代々世襲で、一角には住居もありました。

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大安楽寺境内の一部

大安楽寺の前は公園になっていて、名前の「十思(じっし)」は儒教の教えにある言葉です。園内には吉田松陰の辞世の句を刻んだ碑がありました。

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「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

公園には、発掘された牢の石とともに、処刑を知らせた時の鐘が設置されています。牢屋敷のほど近くにあった、この「石町(こくちょう)の時の鐘」は江戸でもっとも古いものだったということです。

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時の鐘

東京の、名にし負う中央区、地価の高さを連想する地点ではありますが、かってここにあった牢の、処刑を告げる鐘の音を聞いた囚人たちのうめき声の印象が災いして、明治時代は土地が安かったのだそうです。

江戸時代、堀は縦横にめぐらされていました。その堀の止めの地点を堀留と呼び、堀留町の名に残っています。小伝馬町牢屋敷から堀留公園へ向かう途中に椙森神社が目にはいります。
森のつく3つの神社を俗に江戸三森と呼び、烏森、柳森と並んで、深く江戸庶民の信仰を集めました。起源は古く、平将門討伐にのぞんだ藤原秀郷が先勝を祈願したとの伝えもあり、時代がさがって、太田道灌が雨ごい祈願をした神社です。数多くの富くじを興業して江戸三富の一つといわれたこともありました。境内には最古の冨塚があります。

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椙森神社

人形町には、歌舞伎の市村座、中村座などがたち、芝居町としてさかえていました。天保の改革で芝居小屋はとりはらわれることになりましたが、時の北町奉行、遠山金四郎の機転で猿楽町に移転することで、歌舞伎の伝統は守られました。
周辺は歌舞伎に縁のありそうな名前や建物と並んで、昭和っぽいレトロな風景が散見できます。

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  木屋よりも古いという「うぶけや」
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浜田屋(川上貞奴や小唄勝太郎を抱えていた置き屋)
   
芝居町の隣にはお歯黒どぶが取り囲む遊郭がありました。江戸の治安のためと称し、幕府が葦の茂る沼地をうめたてて、江戸各所にあった遊女屋を集めたのです。葦(よし)原は縁起を担いで吉(きち)の字をあて、吉原と名付けられました。14000坪のエリアに1000人の遊女がいたといわれます。日本橋の魚河岸、芝居町とともに、江戸っ子に、一日に3000両が落ちるとはやされました。1657年の明暦の大火(振袖火事)で焼け野原になって、今の台東区浅草へ移るまで40年足らずの営業でした。
新吉原は20000坪を超える規模でしたが、町名は元吉原と同じ名乗りです。元吉原が40年だったのに対し、新吉原は昭和33年の防売法によって廃止されるまで330年続きました。
元吉原の地にあった末廣神社は地主神、産土神として信仰されました。日本橋七福神の毘沙門天にあたります。
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末廣神社

明治の初め頃、入口に尾張屋という甘酒屋があったことから、甘酒横丁とよばれた横丁がありました。当時とは多少位置がちがうものの、昔ながらの名店や老舗がいっぱいの商店街に名前だけはいまも残っています。近くの明治座観劇や水天宮への参詣ついでに訪れる客も多いようです。浜町緑道との交差点にたつ弁慶像は誰もが知る安宅関がモデル。近隣の人形町界隈に、中村座や市村座がかつて所在し、江戸歌舞伎発祥の地の一つとされることに由来します。
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甘酒横丁
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「安宅の席」の弁慶像

人形町にあったのは歌舞伎だけではありません。結城座などの操り人形小屋や浄瑠璃芝居の小屋もありました。付近には人形を制作し修理する人や、人形を操る人形師らが大勢暮らし、人形を売る店も多数あったことから、いつしか人形町と呼ばれるようになったのです。
そして、なんと、ここで、鯨を発見! 人形町になぜ鯨と思うかもしれません。実はおおいに訳があるのです。捕鯨の禁止された現在ではやむなくグラスファイバーを使うようになりましたが、操り人形のバネには鯨の髯が最適だったのでした。

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鯨のモニュメントのある通りには谷崎潤一郎生誕の地や蛎殻銀座跡があります。
銀座とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織でした。その経営は幕府の直営ではなく、御用達町人に委託していました。
江戸の銀座は慶長17年(1612年)に今の銀座2丁目の場所に置かれ、その188年後の寛政12年(1800年)6月に、寛政改革の一つとして銀座制度の大改正のため一旦廃止され、その年の11月、改めてこの人形町の場所に幕府直営の度合いを強めた銀座が発足しました。
当時この付近の地名が蛎殻町だったため、この銀座は人々から『蛎殻銀座』と呼ばれ、明治2年(1869年)に新政府の造幣局が設置されるまでの69年間存続しました。

谷崎潤一郎はその作品から関西の人だと思っている人も多いようですが、実は日本橋出身の江戸っ子です。明治19年(1886)、この地にあった祖父の経営する谷崎活版所で生まれました。祖父のあとを継いだ父の事業の失敗もあって、関東大震災後関西に移住。第2次大戦後にかけて多くの秀作を残しています。

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谷崎潤一郎生誕の地

武蔵国の古社、小網神社は文政元年(1466)産業繁栄と疫病鎮静の神として鎮座されました。太田道灌が神社に参拝、社殿を造営して小網神社と名付け、小網町の名の由来になりました。銭洗いの弁財天と福禄寿がまつられています。

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小網神社

江戸末期、天保の改革で芝居小屋が移転、人形町は活気を失いましたが、明治になって復活します。現在の人形町二丁目あたりには芸妓の置き屋や茶屋があつまり、芳町は柳橋、新橋と並ぶ花街としてその名を馳せました。通りにはいくつかそのあとが残っています。

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芳町芸者の置き屋だったきく屋

芳町の路地をぬけると大観音寺(おおがんのんじ)です。京都清水観音に帰依していた北条政子の創建により鎌倉の新清水寺の本尊として奉祀された観音像の首が祀られています。火災によって寺は消失するものの、首だけは井戸に埋められて難を逃れ、のちに井戸から掘り返されたの首は、時を経て現在の地に安置されるに至ったということです。

甘酒横丁だけでなく、地下鉄人形町駅周辺の商店街には多くの老舗がたちならんでいます。
それでいてすましたところのない、下町情緒にあふれた街でした。

お昼は甘酒横丁に戻って「ダバッボ」でパスタランチをいただきました。
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さつまいものスープと前菜

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