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いつか空が晴れる №71 [雑木林の四季]

   いつか空が晴れる
         -坂の途中のカノン―
                    澁澤京子

 昔はどんな小さな街にもあった本屋が、最近はどんどん姿を消してしまった。渋谷の街でも、かつて渋谷で一番本が揃っていた本のデパート・大盛堂がぐっと規模を小さくしてセンター街の入り口に、やはり規模を小さくして経営している紀伊国屋は西武ロフトの中に、パンテオンに入っていた三省堂は渋谷から消えて、東急本店の上階の丸善・ジュンク堂と新しくできた代官山の蔦屋、マークシティの啓文堂は比較的大きな規模を維持している。
本好きの私は、渋谷でまだ頑張っている本屋を心から応援している。

本屋が街から姿を消すと同時に、落ち着いて珈琲を飲めるような喫茶店も街から消えていった。本屋も、落ち着いた喫茶店も私にとっては街の中にある静かな空間だったのだ。
昔、道玄坂を上って百軒店入口を超えたあたり、坂の途中のビルの急な階段を二階に上ると「Kanon」というクラシック喫茶があった。
私はよくここに立ち寄った。落ち着いて静かな雰囲気が、一人で本を読むのに居心地よかったし、家に帰る途中で一息入れるのにもちょうどいい場所だったのだ。
痩せて気難しそうな顔をしたマスターが淹れてくれる珈琲が抜群においしかったし、店内に流れている音楽もよかった。(バッハなどのバロック音楽がよくかかっていた)
今思うと、かなりマニアックなクラシックファン向けの店だったけど、マニアでもなんでもなかった私にとっても居心地のいい店で、一人でこの店に入って珈琲を飲みながら買ったばかりの本を読むのが、私にとってはゆったりした至福の時間だったのだ。

ある時、ふと本から顔を上げて横を見ると私の隣の席にピアニストの高橋悠治がいたのですごく驚いたことがあった。何とも言えない、人を寄せ付けないような重厚な雰囲気が彼の周りには漂っていた。
店のマスターとは知り合いらしく、寡黙なマスターが、やっと話の通じる同類に巡り合ったという感じで親しげに会話していた。いつも無愛想なマスターの蒼白い顔に微笑みが浮かんでいるのを見たのは後にも先にもこの時だけだったと思う。

一度も話をしたことはなかったけど、あの蒼白い顔のマスターは今頃どうしていることだろう?私もその後は結婚したり子育てしたり、いろいろ忙しくしているうちに店はいつの間にか道玄坂から消えていた。

グールドの、まるで軒先から滴り落ちる雨だれのようにポツンポツンと聴こえるバッハのアリアからはじまる「ゴールドベルク変奏曲」を初めて聴いたのも、確かこの店だったと思う。
グールドは漱石の『草枕』を愛読していたらしい。水墨画のような世界を憧憬して書かれた漱石の『草枕』には、うっとうしい世間から離れ、非人情の目で風景や人を観察しようとする画工や、キ印と言われている奔放な那美さんが出てくる。孤独を好んだグールドが『草枕』の登場人物に共感したのもなんだかわかるような気がするし、芸術が俗世間の住みにくさをやわらげるものだという漱石の考え方にも深く共感したのかもしれない。

ちなみに『草枕』の英語訳版のタイトルは『The Three-Cornered World 』(三角の世界)なのだそうだ、「…してみると四角の世界から常識と名の付く、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。」からとったものらしい。

子供の時、一人でぼんやりしている時間が大切なように、大人も一人でいる時間はとても大切なのだと思う。本を読んだり、音楽を聴いたりするのは、人が自分と向かい合える時間でもある。SNSが発達して人と簡単につながることができるようになったせいか、一人暮らしをエンジョイする人が増えてきたけど、常にSNSなどで世間や人とつながっていないと不安な孤独な人も増えてきた。世間というものが一人の時間にも侵出してきたのだ。

孤独な人であるのと、孤独を愛するのは違う。孤独な時間は、とても豊穣なものなのだと思うし、孤独な時間を持つことによって、人は常識的な日常の世界から離れた、広々とした自由な視点を持つことができるのではないだろうか。

ファンを拒絶して孤独な生活に閉じこもっていたグールドと、弟子に囲まれながらも寂しそうな微笑みを浮かべていそうな漱石。
グールドが亡くなった時、ベッドの下からはぼろぼろになるまで読み込んだ『草枕』と聖書が出てきたらしい。二人とも、偶然だけど同じ50歳で亡くなっている。

人は自分と同質の孤独を抱えている人間に対して、時代も国境も越えて共感するものだし、人は孤独を通して、はじめて自分と同質の魂と自然に寄り添い合うものなのかもしれない。


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