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論語 №84 [心の小径]

二七一 子のたまわく、回(かい)やそれ庶(ちか)からんか、しばしば空(むな)し、賜(し)は命を受けずして貨殖(かしょく)す。億(はか)ればすなわちしばしば中(あた)る。

                 法学者  穂積重遠

 孔子様が顔淵(がんえん)と子貢(しこう)とを比較しておっしゃるよう、「回は理想に近かろうか。志がしばしばからになっても、天命に安んじ道を楽しんでいる。賜は天命に甘んぜず自ら活動して財産を作る。しかし考えが道理にかなうから、不義の富にならぬ。」

 孔子様は結論を出しておられぬが、顔回は仁者に近く、子頁は知者なり、故に回まされり、ということになるのであろう。『春秋左氏伝』によれば、孔子様が「賜や不幸なり。言えば中(あた)る。これ賜をして多言ならしむ。」と言われたとのことだ。伊藤仁斎いわく、「人の貧富におけるは、義あるのみ。いやしくも義に合すれば、すなわち以て富むべく、以て貧しかるべし。然れどもまた命あり。貧富の表に超ゆる者にあらざれば、すなわち泰然として自ら安んずること能(あた)わず。それこれを致すことなくして至るものは命なり。いやしくも致す所ありて至るものは、義と雖(いえど)もしかも命にあらざるなり。子貢の貨殖のごときは、もとより世の財を豊かにする者の比にあらず。然れども致す所ありて至ることを免れず。故にこれを命を受けずと謂うべく、而して義なしと謂うべからざるなり。これ子貢の顔子に及ばざる所以なり。」

二七二 子張(しちょう)、善人の道を問う。子のたまわく、迹(あと)を践(ふ)まず。亦(また)室に入らず。

 ここに「善人」とは「質美にして末だ学ばざる者」である。

 子張が、「先生は性善説をとられますが、生れついての善人で悪事をしないならば、学ばなくてもよさそうなものではござりませんか。」という意味の質問をしたところ、孔子様がおっしゃるよう、「せっかくの善人でも学問がないと、古聖賢(こせいけん)の積みおかれた貴(たっと)い遺産たる礼楽文物のお陰をこうむり得ず、従ってまた聖人の道の奥座敷に入ることができぬ。惜しいことではないか。」

 「遠を践まず」を、古聖賢の跡に従わなくても自然に善道に合し悪事を為さぬ、の意に解するのが通説だが、それでは意味が通らず、次との続きがわるいような気がする故、自己流に右の如く解した。

ニ七三 子のたまわく、論の篤(あつ)さにこれ与(く)みせば、君子者(くんししゃ)か、色荘者(しきそうしゃ)か。

 「色荘者」は後章にいわゆる「色厲(はげし)くして内荏(やわらか」なる者(四四三)であって、見かけは威儀堂々として中味の柔弱卑怯な者をいう。

 孔子様がおっしゃるよう、「言論のもっともらしさだけを受け込むと、君子人であるかも知れず、色のみ荘(さか)んな偽(ぎ)君子にぶつかるかも知れぬ。」

『新薬論語』 講談社学術文庫


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