ケルトの妖精 №14 [文芸美術の森]
バンシー 1
妖精美術館館長 井村君江
一八世紀半ばのころである。アイルランドの名門の一つ、マッカーシー家の子息チャールズは、二十歳にならないうちに父が死んで、その土地財産を受け継いだ。美男で陽気なチャールズは、父のきびしい監視の目もなくなりお金の融通もきくようになると、お定まりの遊蕩にふけるようになった。牛乳と蜂蜜の国アイルランドはまた、ウイスキーと葡萄酒もふんだんな国だったから、酒を飲んではそれにつながる数々の享楽にも身をまかせていた。
二十四歳になったころ、夜も昼も徹して一週間も遊びつづけたあと、チャールズは高熱に冒された。
母親のアン夫人は昼となく夜となく息子の枕元につき添って看病したが、回復の兆しは見えなかった。アン夫人は絶望的な気持ちで、いまにも静かな眠りにつこうとする最愛の息子を見守っていた。
そしてついに、医者がチャールズの死を看取った。
葬式の夜、訪れる弔問客も人々の悲しみの声も静まった夜半、アン夫人は疲れきった心と身体を励まし、棺のおかれた部屋の隣でなお祈りつづけていた。
すると、柩のある部屋から、ひそかな、つぶやきに似た声が聞こえた。
「母さん」
チャールズの棺につき添っていた通夜の客は、よりはっきりとその声を聞きとり、しばらくの沈黙のあとに、ふたたび聞こえたそのつぶやきに驚いて顔を見合わせた。
「母さん」
棺をのぞきこんだアン夫人は、
「話してごらんチャールズ。おまえは生きているのかい」
と、胸がはり裂ける思いでたずねた。
すると、チャールズは身体を起こして、言った。
「ええ、ぼくは生きています。神の裁きの座で、罪深いぼくが裁かれようとしたとき、慈悲深い守護天使さまが同情を寄せてくれて、審判者にお願いをしてくれたのです。子どものころ、母さんがいつもお祈りをするようにと言っていた、あの守護天使さまです。それで審判者が、罪の償いをするようにと三年のあいだ、生きていることを許してくれました」
生き返ったチャールズは心身の元気を取り戻した。それからというもの、ふたたび放蕩にふけることもなく、悔い改めた生活を送るようになった。
歳月はまたたく間に流れて三年がたった。
次の日曜日が三年目のその日である。
ところがその日曜日に、チャールズの従兄弟のライアンが、チャールズの後見人をしている女性、ジェーンと結婚式をあげることになり、式はチャールズの邸宅スプリング・ハウスで行われることになった。
チャールズは、せめて一日結婚式をのばすように言いはった。けれど三年前に、死の床でチャールズが言った話を覚えているものは本人以外にいなかった。
マッカーシー家の親戚マリー夫人が、結婚式の招待状を受け取ったのは水曜日の朝早くだった。使いのものは馬車も通れない悪路を二日かけて歩きつづけ、この招待状を届けた。マリー夫人は、ふたりの娘を連れて結婚式に出かけることにした。
降りつづいた雨のあとで道はぬかるみ、それでなくとも悪い道はもっとひどくなっていた。マリー夫人は日曜日の結婚式に遅れないようにと予定をたてた。木曜日は留守のあいだの家事が滞らないように、あれこれと指示するのに追われるだろうから、金曜日の朝に出発し、その晩は途中の知人の邸宅へ泊まり、土曜日の夕方にチャールズの邸宅に着くようにしようという計画だ。カースル・バリーにあるマリー夫人の邸宅からは五十マイルの距離だった。
金曜の朝、マリー夫人たちは出発したが、旅程は思ったよりもはかどらず、二十マイルも行くと日暮れも近くなってきた。その日は懇意にしているバーク邸で泊めてもらう心づもりだったので、とつぜんだったが訪ねていった。
バーク邸では気持ちよくもてなしてくれ、夜遅くまで話しこんでしまったので土曜の朝の出立が遅れてしまった。
雨のあとの道は相変わらずひどくぬかるんでいて、一頭立ての屋根なし馬車は右に左に揺れながらのろのろと進むしかなかった。
その日は朝から変わりやすい空模様がつづき、陽がさっと射したかと思うと雨になり、風も一日じゅう吹いていた。
チャールズの邸宅まであと十五マイルというところまで、ようようたどり着いたときには、すでに日も暮れてしまい、嵐の前のような黒い雲が空を走り、ふいに満月が輝くかと思えば、真っ黒な雲が険しい山のようにおおって次第しだいに大きくなり、旅の不安をかきたてた。道に沿って積みあげられた石の垣根を渡って、風がびゅうびゅうと顔を叩きつけてきた。
雨宿りをする小屋も木立も見当たらない。マリー夫人はこの道から四分の一マイル脇道へそれたところにあるバーク氏の弟の邸宅に泊めてもらうしかないと思いはじめていた。そうして、「日曜日の朝早くたって、スプリング・ハウスのチャールズの邸宅に着き、朝食をいただきましょう。それで式にも間に合うでしょう」と思案をめぐらした。
マリー夫人は御者のリアリーに、
「バークさんの弟さんのお屋敷までは、あとどのくらいなのかしら」
とたずねた。
「あと少し行けば脇道がありやすんで、そこを左へ入りや並木道になって、すぐでございますよ」
「そう。ではバークさんの弟さんのお屋敷へ急いでおくれ」
マリー夫人がそう言い終わらないうちに、鋭い悲鳴が右手の石の垣根のほうからあがり、
一行の耳を切り裂いた。それは苦痛に悶えながら死を迎えようとしている女の叫び声のように聞こえた。その不気味な声に馬車のみんなはぞっと身震いして、凍りついたように押し黙ってしまった。
それでもすぐわれに返ったマリー夫人は、御者に向かって、
「リアリー、あの叫んでいる女の人にまだ息があるのなら、助けなければいけないわ。早く垣根の向こうへ回っておくれ」
と叫んだ。
しかし御者はマリー夫人の言葉に耳をかさず、はげしく馬に鞭を当てて、
「女ですって。あれは女なんかじゃありませんよ。早くどこかへ逃げなくちゃだめだ」
と、必死に馬車を走らせようとした。 (つづく)
一八世紀半ばのころである。アイルランドの名門の一つ、マッカーシー家の子息チャールズは、二十歳にならないうちに父が死んで、その土地財産を受け継いだ。美男で陽気なチャールズは、父のきびしい監視の目もなくなりお金の融通もきくようになると、お定まりの遊蕩にふけるようになった。牛乳と蜂蜜の国アイルランドはまた、ウイスキーと葡萄酒もふんだんな国だったから、酒を飲んではそれにつながる数々の享楽にも身をまかせていた。
二十四歳になったころ、夜も昼も徹して一週間も遊びつづけたあと、チャールズは高熱に冒された。
母親のアン夫人は昼となく夜となく息子の枕元につき添って看病したが、回復の兆しは見えなかった。アン夫人は絶望的な気持ちで、いまにも静かな眠りにつこうとする最愛の息子を見守っていた。
そしてついに、医者がチャールズの死を看取った。
葬式の夜、訪れる弔問客も人々の悲しみの声も静まった夜半、アン夫人は疲れきった心と身体を励まし、棺のおかれた部屋の隣でなお祈りつづけていた。
すると、柩のある部屋から、ひそかな、つぶやきに似た声が聞こえた。
「母さん」
チャールズの棺につき添っていた通夜の客は、よりはっきりとその声を聞きとり、しばらくの沈黙のあとに、ふたたび聞こえたそのつぶやきに驚いて顔を見合わせた。
「母さん」
棺をのぞきこんだアン夫人は、
「話してごらんチャールズ。おまえは生きているのかい」
と、胸がはり裂ける思いでたずねた。
すると、チャールズは身体を起こして、言った。
「ええ、ぼくは生きています。神の裁きの座で、罪深いぼくが裁かれようとしたとき、慈悲深い守護天使さまが同情を寄せてくれて、審判者にお願いをしてくれたのです。子どものころ、母さんがいつもお祈りをするようにと言っていた、あの守護天使さまです。それで審判者が、罪の償いをするようにと三年のあいだ、生きていることを許してくれました」
生き返ったチャールズは心身の元気を取り戻した。それからというもの、ふたたび放蕩にふけることもなく、悔い改めた生活を送るようになった。
歳月はまたたく間に流れて三年がたった。
次の日曜日が三年目のその日である。
ところがその日曜日に、チャールズの従兄弟のライアンが、チャールズの後見人をしている女性、ジェーンと結婚式をあげることになり、式はチャールズの邸宅スプリング・ハウスで行われることになった。
チャールズは、せめて一日結婚式をのばすように言いはった。けれど三年前に、死の床でチャールズが言った話を覚えているものは本人以外にいなかった。
マッカーシー家の親戚マリー夫人が、結婚式の招待状を受け取ったのは水曜日の朝早くだった。使いのものは馬車も通れない悪路を二日かけて歩きつづけ、この招待状を届けた。マリー夫人は、ふたりの娘を連れて結婚式に出かけることにした。
降りつづいた雨のあとで道はぬかるみ、それでなくとも悪い道はもっとひどくなっていた。マリー夫人は日曜日の結婚式に遅れないようにと予定をたてた。木曜日は留守のあいだの家事が滞らないように、あれこれと指示するのに追われるだろうから、金曜日の朝に出発し、その晩は途中の知人の邸宅へ泊まり、土曜日の夕方にチャールズの邸宅に着くようにしようという計画だ。カースル・バリーにあるマリー夫人の邸宅からは五十マイルの距離だった。
金曜の朝、マリー夫人たちは出発したが、旅程は思ったよりもはかどらず、二十マイルも行くと日暮れも近くなってきた。その日は懇意にしているバーク邸で泊めてもらう心づもりだったので、とつぜんだったが訪ねていった。
バーク邸では気持ちよくもてなしてくれ、夜遅くまで話しこんでしまったので土曜の朝の出立が遅れてしまった。
雨のあとの道は相変わらずひどくぬかるんでいて、一頭立ての屋根なし馬車は右に左に揺れながらのろのろと進むしかなかった。
その日は朝から変わりやすい空模様がつづき、陽がさっと射したかと思うと雨になり、風も一日じゅう吹いていた。
チャールズの邸宅まであと十五マイルというところまで、ようようたどり着いたときには、すでに日も暮れてしまい、嵐の前のような黒い雲が空を走り、ふいに満月が輝くかと思えば、真っ黒な雲が険しい山のようにおおって次第しだいに大きくなり、旅の不安をかきたてた。道に沿って積みあげられた石の垣根を渡って、風がびゅうびゅうと顔を叩きつけてきた。
雨宿りをする小屋も木立も見当たらない。マリー夫人はこの道から四分の一マイル脇道へそれたところにあるバーク氏の弟の邸宅に泊めてもらうしかないと思いはじめていた。そうして、「日曜日の朝早くたって、スプリング・ハウスのチャールズの邸宅に着き、朝食をいただきましょう。それで式にも間に合うでしょう」と思案をめぐらした。
マリー夫人は御者のリアリーに、
「バークさんの弟さんのお屋敷までは、あとどのくらいなのかしら」
とたずねた。
「あと少し行けば脇道がありやすんで、そこを左へ入りや並木道になって、すぐでございますよ」
「そう。ではバークさんの弟さんのお屋敷へ急いでおくれ」
マリー夫人がそう言い終わらないうちに、鋭い悲鳴が右手の石の垣根のほうからあがり、
一行の耳を切り裂いた。それは苦痛に悶えながら死を迎えようとしている女の叫び声のように聞こえた。その不気味な声に馬車のみんなはぞっと身震いして、凍りついたように押し黙ってしまった。
それでもすぐわれに返ったマリー夫人は、御者に向かって、
「リアリー、あの叫んでいる女の人にまだ息があるのなら、助けなければいけないわ。早く垣根の向こうへ回っておくれ」
と叫んだ。
しかし御者はマリー夫人の言葉に耳をかさず、はげしく馬に鞭を当てて、
「女ですって。あれは女なんかじゃありませんよ。早くどこかへ逃げなくちゃだめだ」
と、必死に馬車を走らせようとした。 (つづく)
『ケルトの妖精』 あんず堂
2019-10-27 09:12
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