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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №15 [文芸美術の森]

第四章 高島さんの言行録 1

                早稲田大学名誉教授  川崎  浹

  過激な発言


 アトリエのたたずまいを知ってからは、高島さんの姪の斐都(ひず)子や満兎(まと)がかつてそうしたように、私もよく友人をつれて高島さんのアトリエや個展を訪れた。私の世代はフランス語でやや蔑称の意味をこめて戦後派(アプレゲール)と呼ばれていた。私たちの世代には大人ひいては人間への不信感がつよく、敗戦までの日本のすべてを否定し、旧世代とは異なるアヴァンギャルド(前衛)の破壊の感覚を身につけ、新しい形式を待望していた。私がアトリエにつれて行った友人たちは、たまたま東京育ちのソフィストケイトされた青年だったので、高島さんの作品を「よく描かれた写実画」ぐらいにしか見ていなかったようだ。
 私もかれらと未来派やダダの感覚を共有していたが、地方出身の素朴さが野十郎の絵を理解するうえでかえって益したかもしれない。私には写実という様式の古さが気にならなかった。野十郎の絵の魅力は単なる写実ではないところにあり、その写実を超えた部分に私は惹かれながらも、巷間がいうように野十郎を写実派とばかり思いこみ、そう定義することに疑いをはさまなかった。そして「良いものに古いも新しいもない」と踏ん張りながら自分を正当化してきた。
 しかし《秋の花々》や《カンナとコスモス》は抽象画でこそないが、およそ写実とは言いがたい雰囲気の絵である。画家にしか見えない花の霊、あるいは花々に託された死者の霊かもしれないと思わせる濃い爛熟と腐蝕への一歩手前の匂いがたちこめている。それから十年余ののちに画家が書いた、東京郊外に進出する企業との揃いを主題にした『小説なりゆくなれのはて』を読むと、そのことがいよいよはっきり見えてくる。野十郎は厳密な意味では写実派ではない。かれの絵をなんらかの様式に位置づける必要から写実派と呼ぶにしても、野十郎が自分の視線を対象に合わせて単に風景や静物を模写しているのではないことがわかる。必ずしも本人の意図が十二分に成功していない場合があるとしても、それをうかがい知ることはできる。

 私はたまに高島さんを新橋の天ぷらやでご馳走し、銀座の裏街を歩いて、お返しにこんどは高島さんが私を歌舞伎座の『鏡獅子』に誘った。歌舞伎だけでなく私たちは能狂言や舞踊の観劇にも出かけた。ある画家の個展にさえ出かけた、と私が驚くのは、画家の知人といえば大内田茂士の名しか思い浮かばないほど、高島さんは画壇と交渉がなかったからだ。大内田茂士さんはのちに示現会(しげんかい)の会長や芸術院会月にもなる福岡県出身の画家で、最初に高島さんの実家の一隅に建てた小屋のようなアトリエ椿柑竹(ちんかんちく)工房に訪れて手ほどきを受けて以来、ながい付き合いとなり、示現会に高島さんの出品を乞い、画家も二度出品したことがある。お宅が私と同じ沿線だったので、私も高島さんと何度か訪れ、帰り際にはお子さんたちが玄関に並んで見送ってくれた。玄関脇の書棚には五味康祐のシリーズ小説『柳生武芸帳』が並んでいた。大内田さんは柔道の有段者、温厚誠実な人で、凧烏さんの信頼を得ていた。
 高島さんといっしょに渋谷で黒滞明監督の『野良犬』を見たこともある。山本札三郎演じる拳銃ブローカーに共感したのか、画家は映画が終わってロビーに出ながら、「うん、あれはなかなか良い役者だ」と言ったので、私は「あんなヤクザ気取りの男を」とおかしくもあったが、画家は聖も俗もたちきる非情な男のプロフィルが気に入ったのだろう。

川崎古池.jpg
古池

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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