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医史跡を巡る旅 №64 [雑木林の四季]

「西洋医学事始・津山藩の蘭学」

             保健衛生監視員  小川 優

蘭書をもとにした蘭学は、青木昆陽を始祖として徐々に広まっていきます。新しい学問として受け入れられるためには、やはり実用的で、圧倒的な優位性が認められることが一番です。
当時の日本が、明らかに世界の最新水準より劣っていたのが、軍事技術です。数百年の対外交流の途絶、国内の安定により兵器を始めとする軍事技術は停滞したまま。欧米列強は大形で自らの動力で動く軍艦、射程が長く命中率の高い小銃や大砲などの新兵器を配備しており、未だ刀剣と火縄銃に頼る日本は大きく水をあけられていました。
また軍事技術の基礎となる、天文学、化学、製鉄技術を始めとする工業技術、そして医学も同様でした。幕府にとって、これらの技術をいち早く取り込み、西欧列強と対抗する術を得ることが急務だったのです。今の感覚ではそれぞれ別の分野ととらえられがちですが、いわゆる蘭学はこれら全てを包括しての学問であり、後の緒方洪庵、適塾の出身者が医者としてのみならず、幕末から明治にかけて広い分野で活躍することとなった所以です。こうした技術は蘭書を通じてもたらされました。

西洋医学もまた、「気」に代表される精神論や、治癒そのものが加持祈祷とさほど変わらない、それまでの漢医学と全く異なった内容、劇的な効果に、治療される患者はもちろん、施術する医者自身の驚きも大変なものだったのに違いありません。
安永2年(1775)、出島に商館付き医師として着任したスウェーデン人のツンベルクは、リンネに連なる世界的な植物学者で博物学者ですが、優れた医師でもありました。日本滞在は僅かに一年でしたが、当時の梅毒の標準治療法であった水銀療法を日本にもたらしたほか、カピタン江戸参府にも同行し、桂川甫周、中川淳庵らが彼の元を訪れて教えを乞うています。
桂川甫周、中川淳庵ともに解体新書に関わった医師、蘭学者です。そして彼らに学んだ者の中に津山藩の宇田川家三代がいます。

「宇田川玄随像」
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「宇田川玄随像」 ~岡山県津山市西新町 津山洋学資料館

宇田川家は元々江戸で開業していた医家ですが、宝暦2年(1752)宇田川道紀の時に津山藩主に召し抱えられ、以後津山藩医を勤めます。宇田川家は早世するものが多く、養子を迎えて宇田川姓を名乗らせることが多々ありました。

「宇田川玄随墓」
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「宇田川玄随墓」 ~岡山県津山市西寺町 泰安寺

槐園と号する。宝暦5年(1756)道紀の子として生まれるが、父道紀が宝暦10年(1760)に51歳で死去、玄随が幼少だったため父の弟玄淑が宇田川家を継ぎ、玄随は養子となった。天明元年(1781)には養父玄淑が亡くなり、家督を相続。はじめ漢方医であったが、安永8年(1779)ころから大槻玄沢の芝蘭堂で蘭学を学び、蘭方医となる。前野良沢、杉田玄白らとも交流があったという。幕医の桂川甫周の勧めでオランダ人ヨハネス・デ・ゴルテルの記した「簡明内科書」を10年かけて翻訳、「西説内科概要」をまとめる。寛永9年(1797)、43歳で死去。

「宇田川玄真像」
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「宇田川玄真像」 ~岡山県津山市西新町 津山洋学資料館

宇田川家は岡山津山藩の藩医ですが、実質江戸で活躍します。玄随に学び、その跡を継いだ玄真は、翻訳など自らの業績もさることながら、のちに蘭学を大きく開花させる箕作阮甫や緒方洪庵を育てたとして、「蘭学中期の大立者」と称されます。

「宇田川玄真墓」
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「宇田川玄真墓」 ~岡山県津山市西寺町 泰安寺

榛斎と号する。明和6年(1798)、伊勢の安岡家に生まれる。江戸に出て宇田川玄随のもとで学び、玄随のすすめで大槻玄沢にオランダ語を学ぶ。杉田玄白に才能を見出され娘と結婚し養子となりますが、法等の末身を持ち崩して離縁される。そのため生活には困窮するが、友人らの支えもあって苦学の末再起し、蘭日辞書「ハルマ和解」の編纂に携わる。寛永9年宇田川玄随が亡くなるが、後継ぎがいなかったため、大槻玄沢など師らの後見の下、宇田川家を継ぎ津山藩藩医となる。
広範な内容の医学書「医範提綱」や、薬学書「和蘭薬鏡」など翻訳を多く手掛け、膵臓の「膵」、リンパ腺の「腺」などの文字を作りました。晩年は隠居し、天保5年(1834)に64歳で亡くなる。

「宇田川榕菴像」
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「宇田川榕菴像」 ~岡山県津山市西新町 津山洋学資料館

最初に蘭学に転向した宇田川玄随という偉大な始祖がいて、津山藩医宇田川家の名の元に、世襲ではなく当時の優秀な若者が代々を繋いでいった、というのが宇田川家の特徴です。

「洋学者 宇田川家三大墓所碑」
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「洋学者 宇田川家三大墓所碑」 ~岡山県津山市西寺町 泰安寺

宇田川家三代とも江戸を中心に活躍したため、もともと墓所は多磨霊園にありましたが、宇田川家三代顕彰実行委員会が中心となって、平成元年に墓石が津山市西寺町の泰安寺に移されました。

「宇田川榕菴墓」
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「宇田川榕菴墓」 ~岡山県津山市西寺町 泰安寺

寛永10年(1798)、大垣藩医で蘭学者の江沢養樹の子として生まれる。文化8年(1811)に宇田川玄真の養子となる。オランダ語を学び、文化11年(1814)、(1816)とオランダ商館長ドゥーフ(ヅーフ)の江戸参府の際に面会、文政9年(1826)には同行したドイツ人医師シーボルトとも交流している。医学のみならず、化学、本草学についての造詣が深く、化学書「舎密(せいみ)開宗」、植物学書「西説菩多尼訶(ぼたにか)経」など翻訳、著述している。これらの著述の中で元素、試薬、酸化、中和、還元、分析、水素、炭素、酸素、窒素などの単語を用いており、彼によって造語されたものも多い。彼にも後継ぎはなく、弘化3年(1846)49歳で亡くなる。

榕菴は多才な人間で、医学、植物学の学術的なこと以外にも、「哥非乙(こうひい)説」を記してコーヒーを日本で初めて紹介し、「珈琲」の文字を当てたり、オランダから持ち込まれたトランプを、正確に模写したりしています。津山洋学資料館の入場券のデザインには、榕菴が模写したトランプが使われています。

「津山洋学資料館入場券」
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「津山洋学資料館入場券」 ~岡山県津山市西新町 津山洋学資料館

津山藩に属した宇田川三代、その後に活躍した箕作阮甫を始めとする箕作家代々の人々など、津山を始めとして美作で活躍した蘭学者、のちの洋学者の業績を紹介する施設として、津山洋学資料館があります。

「津山洋学資料館」
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「津山洋学資料館」 ~岡山県津山市西新町 津山洋学資料館

今なお城下町の風情を残す城東地区に、平成22年に新築移転した博物館で、前庭に津山に関係のある洋学者の胸像が建てられているほか、建物の壁には宇田川玄随、宇田川玄真、宇田川榕菴、箕作阮甫、箕作秋坪の五人を描いた「津山洋学五峰」と題するレリーフが設置されています。

「津山洋学五峰レリーフ」
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「津山洋学五峰レリーフ」 ~岡山県津山市西新町 津山洋学資料館

箕作阮甫など、美作地方の蘭医、蘭学者のご紹介はまたの機会に。


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