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梟翁夜話 №50 [雑木林の四季]

「栃の心のこころ」

                翻訳家  島村泰治

つらつら思ふのだが、大相撲の外人力士たちの日本語の何と巧みなことか。彼らが話す言葉の間と息遣ひ、語彙も何も、われわれと寸分違わぬ見事なものだ。言葉を修得するのに何ぞ余程の手立てでもあらうかと、と訝(いぶか)るほどだ。

数ある言語のなかで、日本語の難しさは抜きん出てゐる。印度欧州系の言語なら二、三どころか五カ国語を覚えたとて驚くにあたらないとしたものだ。根が豚と油の支那料理に塾達したとて、あれはdoggy bagに一緒くたに詰めて一向に味は変はらない料理だから芸に深みはないが、和食の繊細は一種独特な世界で、そんじょそこらの外人シェフが修得できるものではない。腕っこきの板前のしごきに耐へて、何年も掛けて身につける芸だ。即、日本語の世界に通じるもので、相撲の外人力士たちの「芸」にも共通するところだ。

つまり、日本語の難しさとその習得について語るときに、日本料理の蘊蓄と対比させると実に分かり易い。食材を適材適所に、多からず少なからず、季節感を生かして使ひ分けるなどは、日本語の言葉遣ひがそのまま当て嵌まる。外人が在り来たりと思ふ日本人の挨拶言葉も、日本料理でそっと添える紫蘇の葉や隠し味にひとしく、そこはかとないゆとりを演出する知恵だ。なければないでいいが、あるに越したことはないと云ふ、日本ならではの間がそこにある。

そんな芸は学んで覚えるものではない。試行錯誤で身につけるものだ。さう、身につける感覚がコツで、外人力士の鮮やかな日本語はさうして覚へたにちがいない。そのコツは状況を織り込み取り込んで身につくとしたものだ。どんな状況下でそれが起きたか、誰がどうしたときにその表現が使はれたか、つまり、表現そのものだけを教室で教はるのではなく、それが発生した状況も一緒くたに覚へてしまふのがコツなのだ。

外人相撲取りたちのあれほど滑らかな日本語は、机の向かうの親方が口移しで教え込んだとは到底思へない。土俵の上で、仲間に揉まれ捻じ込まれた言葉、言葉、言葉に違いない。

「まだまだまだ、なんだそのざまは!」
「もう一丁、その屁っ放り腰はなんだ。落とし落として、擦って擦って擦って、足だ!足だ!擦り足だ。」

ちゃんこを囲んでの雑談ほど豊かな、血の通った語彙の泉はなからう。外人相撲取りたちは、何のことか分からないまま、日々の日本語をさり気なく覚へてきたに違いない。彼らの喋りが土俵上の日本語に偏ってゐるだろうとか、実社会では役に立つまいとやっかむのは愚というものだ。西部劇きり見ない映画好きは付き合えないほど偏ってゐるかなど、考へるすらも愚かしい。外国人の相撲取りたちは、両国の街中で立派に生きていける言葉を身につけてゐる。

さて、外人相撲取りのことは本題のマクラにすぎない。難しい日本語を平均的な外人が難なく身につけてゐる現象を、英語学習に四苦八苦する人々に知らしめたいのが私の本意だ。知恵は書物にばかり埋まってはゐない。知恵、それも叡智と云はれるものがひょんな思ひ付きから生まれる例は、洋の東西に数知れない。

筆者が相撲取りに拘るには少々わけがある。何を隠そう、彼らの修業に自分の苦労が重なるからだ。自分の英語習得のプロセスが彼らの日本語習得のそれに酷似するからだ。彼らが来日したのは相撲取りになるためであり、日本語を覚へるためではない。相撲取りへの修業の過程で日本語が付いてきただけのことだ。だから、彼らの日本語を褒めそやすのは筋違いで、彼らにしても大関間近だと云へば大いに喜ばうが、日本語が日本人並みだと褒められても苦笑いするばかりだらう。

ならば、活きた英語を身に付けるために、外人相撲取りらの土俵に相当する場がありやなしや、という話になる。彼らが相撲を覚える過程で日本語を身に付けた場が土俵だったとすれば、何かを覚える過程で英語が身につく「土俵」があるはずだ。ある。間違いなくあるのだ。個々人の環境で様変わりはしても、土俵はたしかにある。

前段で自分が英語を覚えたプロセスに重なると書いたが、将に筆者は外人相撲取りたちと同じ環境にすき好んで我とわが身を引き摺り込んだのだ。好んでその環境を生かし、その結果として英語を習得、否、身につけたのだ。

1950年代半ば、アメリカ留学にあたり、筆者は絶対条件として日本人が皆無(と思しき)大学を留学先に絞った。ロッキー山脈の裾、アイダホの片田舎の単科大学。孤立無援、言語不通、すべてままならぬ状況だった。好んでそうしたからには、泣くも喚くもない。ひたすら自製逆境に耐えた。

筆者は当年とって84歳、現職時代が外務畑だったとは云へ、この歳で英語を毛ほども苦にしない。母国語並みに読み書き愚図り、寝言さえも云ふ。気が立てば、喧嘩科白は英語が得手だ。だから栃の心が泣き言に膝の痛みを愚図る時の日本語の息遣いが愛おしいとすら思ふ。

この話のオチはこうだ。曰く、世界で英語がもっともへたくそだと、自他共に許す日本人にしげしげと語り掛けたい。「迷わずに相撲を取れ」。何処でどんな相撲を取るか、それぞれ思ひ悩むこと、まずそれから始めよ。

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