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コーセーだから №56 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」  17

                (株)コーセーOB  北原 保

脱税疑いで査察される/堂々と裏帳簿を提出

のるかそるかの大事件

 小林コーセーを語るために、小林社長の若き東洋堂時代をくどくどと書いたのには理由がある。小林孝三郎氏の経営者としての条件をさぐり出すためである。
 企業の経営者というのは、一流大学を出たからとか、財産があるからとか、また知識が豊富であるからといって成功しない。アメリカの有名な経営学者のP・F・ドラッカー教授はこういっている――「経営は、実行のための、鋭い頭脳の使用法なのである」と。小林孝三郎氏は東洋堂で〝鋭い頭脳の使用法〟を学びとった。これが小林コーセーの経営者としての大いなる条件になった。
 昭和23年6月、資本金10万円の小林合名会社は、資本金150万円の株式会社小林コーセーという会社名に改められ、役員には小林孝三郎社長、小林聰三専務、大久保裕司常務(26年退任)を選び、従業員30名、当時の代表商品はスキンパールというクリーム。とぶように売れたが公定価格はくずさないという同社の方針は、小売店に〝共存共栄〟の信用度を高めていった。
 ところが、24年、コーセーは、のるかそるかという大事件にみまわれた。国税局が脱税の疑いで〝査察〟にのりこんできたのである。そのころ「査察されると、と殺ともいわれ、ペンペン草も生えない」といわれていただけに、小林社長も専務もショックだった。
 早速、小林社長は全社員を集めて一席ぶった――「社長はえらいことをやったと思っているかもしれないが、占領下の混乱期、10割物品税で原料が割り当て配給では脱税はどこもやらざるをえない。これでコーセーが立てる、立てないかは、実は明日からのあなた方の活動いかんによる。こんなものふっとばしてしまおう」と――。従業員だけ納得させても原料が入らなければどうにもならない。原料屋には「査察が入ったが、私は腹を切ったってあんたたちに損はかけない。それでも心配な人は原料をよこさなくてもよい」と大見得を切った。販売面では売り手市場だから商品さえ送ればまず安心というわけ――。
 「内心は〝後顧の憂いこの一件のあり〟という感じがしたんですよ。あのとき水野広徳やロシアのウラジミル・セメヨーノフ中佐の『ああ 此の一戦』というのを思い出して、社長が指揮者としてやらなければつぶれると考えましたね」
 当時、国税局の査察部長は〝鬼部長〟といわれるすご腕、大企業の三菱化成やら旭電化が軒並みに何億という脱税であげられていた。
 ある一流会社は、国税局がおさえた金庫の中から、社員が夜中に帳簿を持ち出して川に飛びこみ、帳簿を読めないようにしてしまった。それだけならよかったが、責任を感じた社長が自殺するという事件まで起こしたことがある。
 小林社長はそのころ王子税務署管内の物品税協力会会長という立場にあったが、査察には堂々と裏帳簿を査察責任者に一枚もかくさず提出したという。これが査察官の心証をよくし、脱税分は1,450万円で3年の期限つき払いで手を打った。
 「だが、はっきりするまで1年あまり飯がノドを通りませんでしたよ。業界紙など〝コーセー立たず〟なんていまにもつぶれそうに書いていましたよ。味方だったのは全国の小売店、ぜったいつぶさないといってはげましてくれました。やはり公定価格で売っていたことが効果があったんですね」
 脱税事件後2年間には、コーセーは北区栄町に工場敷地800坪(約2700平方メートル)を借りて工場を拡張することになり、26年にはコーセー商事株式会社が設立されて、販売部門を担当することになる。
 「物品税10割という、正当な商売をしていたらどんなに原価計算をしても赤字になる時代に、〝脱税〟とおどかされて、日夜、専務と苦労したおかげで、兄弟仲はますます強くなりましたよ。税務署サマサマということかな……」コーセーが化粧品業界で一目おかれる存在になったのはこの苦難をのり切ってからだ。
                                        (日本工業新聞 昭和44年10月28日付)

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国税局の査察が入ったころの小林孝三郎社長

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当時の主力工場だった豊島工場の製造ライン風景


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