SSブログ

多摩のむかし道と伝説の旅 №31 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

                    -百草から平山へ七生丘陵散策路を辿る道- 1

                  原田環爾

 南多摩に広がる多摩丘陵は遠い昔多摩の横山と呼ばれた。中でも多摩川から浅川に連なる川筋の南岸に横たわる丘陵は七生丘陵と呼ばれる。かつてこの丘陵地に七生村と称する村落があったことによる。七生村は明治22年、多摩丘陵にあった高幡村、南平村、平山村、程久保村、三沢村、落川村、百草村、長沼村飛地が合併して誕生した村で、その後69年間にわたって丘陵の村落として存続したが、昭和33年日野町と合併、昭和38年には現在の日野市制が施行され、それとともに七生の名称は消滅した。かつては鬱蒼とした林で覆われた丘陵であったが、今では行楽施設や、大学の敷地、更には大規模な宅地開発でニュータウンと化して、丘陵の自然の多くが失われてしまった。特に近年は丘陵の真中を切り拓いて多摩都市モノレールが敷設され景観は一変してしまった。丘陵の林の中を縫う様に走っていた道筋は各所で寸断されて昔日の面影はない。けれども今でも七生丘陵の道筋をある程度辿ることが出来る。かろうじて残された昔の道筋に新しい道筋を繋げて七生丘陵散策コースとして整備されている。多摩の都心部に残る丘陵の散策コースとしては大変貴重なものだ。散策路は東コースと西コースに分かれ、東コースは京王百草駅から多摩動物公園、西コースは多摩動物公園から京王平山城址公園駅へ至る全長約9kmの道筋だが、その20~30%に昔日の丘陵の面影を彷彿とさせる自然が残されている。散策路には梅林で有名な百草園や、鎌倉武士として活躍した平山季重の城址が佇む。今回はそんな七尾丘陵散策路を百草駅から平山城址公園駅まで辿ってみることにする。
31-1.jpg

 百草駅の南口から駅前の川崎街道に沿ってほんの少し左手東へ向うと北に入る路地がある。路地に入ると鳥居31-2.jpgと石の急階段の大宮神社がある。鳥居の横には馬頭観音が2基佇んでいる。1基は文政年間のもの。社殿は急階段を登った丘の中腹にある。創建年代は不詳。祭神は大国主命という。寛文10年(1670)頃には三沢の大宮耕地にあったが、文久2年(1862)この地に移ったと伝えられている。

 大宮神社の鳥居前から右へ向かう路地に入ると、七生丘陵散策路東コースの地図案内板が立っている。道なりに進むとすぐ分岐点に来る。右を採って宅地の路地を進み「キックボクシング一心館」を横にやるとコンクリートの壁にぶつかる。壁に沿って右の小坂を上がると小さな辻に出る。辻の一角に「七生丘陵散策コース(東)」の道標が立っている。辻の南側の道は丘陵へ上がる幅1mばかりの急階段になっている。階段の右側はフェンスが張られてよく見えないが、丘陵に湾入した谷戸になっていて、傍らに「落川地区急傾斜地崩壊危険区域」と記した標識が立っている。31-3.jpg丘に上がると鄙びた風景の中に数軒の民家と辻が現れる。右手の小道は鬱蒼とした雑木林へ入る道で、これが七生丘陵散策路になっている。
 雑木林の道に入るとそこはまさに昔の丘陵の道だ。爽やかな緑の中をうねうねと進むと、左手に削平された窪地が現れ、その一角に古い墓がある。百草園の前身である旧松連寺を中興開基した寿昌院慈岳長尼の墓と思われる。やがて舗装された百草園通りに出る。そこは松連坂と呼ばれる急坂を登りきったところになる。筋向いに風情のある小さな木戸が見える。それが梅林で有名な百草園の入口になっている。ちなみに百草園入口の傍らにT字路でぶつかる上り坂は旧松連寺の表参道である。
31-4.jpg ところで百草園は元はこの地にあった松連寺という天台宗の寺の寺域であった。元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの折、分倍・関戸の合戦で全焼。時代は下って江戸時代の享保2年(1717)、小田原城主大久保忠隣の側室寿昌院慈岳長尼が、自刃した徳川家康の嫡男岡崎三郎信康の追悼のために、失われた松連寺を慈岳山松連寿昌禅寺と称する大檗宗の寺として再建した。その折、境内に梅が植えられたことが当地の梅の始まりと言う。文化文政(1804~1830)の頃から名園として知られ、江戸の文人太田蜀山人も親しんだ。明治に入ると新政府の神仏分離令による廃仏毀釈により廃寺となったが、庭園は明治18年、百草村出身の横浜の貿易商青木角蔵により百草園として開園された。昭和32年には京王電鉄の所有となり、現在約800本の紅梅・白梅がある。北村透谷や徳富蘆花、若山牧水等、多くの文人に愛された。百草園には松連庵の他、心字池、若山牧水歌碑、松尾芭蕉句碑、芭蕉天神、見晴らし台、清涼台など見所がたくさんあるが、心字池の池畔に小さな地蔵堂が佇んでいるのをご存知だろうか。赤い前垂れに頭巾を乗せた子育地蔵尊だが、由緒書にこんなふうに記されている。
31-5.jpg 31-6.jpg江戸時代の末、松連寺が将軍家ゆかりの尼寺として栄えていた頃、尼寺の女中のウメが、いつのまにか庭師の善吉と人目を偲ぶ仲となり、二人の間にかわいい女の子が生まれトキと名づけた。しかし働き者のウメに比べて善吉はなまけ者で、暮らしに困ったウメはトキをつれて郷里の新潟へ帰ったが、過労が元でまもなく死んでしまった。ウメの死に目がさめた善吉は、心を入れかえてトキを背負って庭師として働くようになった。ところがトキが四歳になったある日のこと、道端で遊んでいたトキに恐ろしい勢いで走って来た暴れ馬があっというまにトキを踏み殺してしまった。善吉は悲しんで百草の尼様に悲しみを訴えた。尼様は「いくら嘆いても死んだ者は帰らない。それよりもお地蔵様を彫ってお祀りすればそれが何よりの供養です」といって慰めてくれた。そこで善吉は心をこめてお地蔵様を刻んだのがこの百草の子育地蔵である。このお地蔵様は明治の初めの廃仏毀釈で一時土中に埋められたが、京王電鉄がこの土地を買収した時、土中から掘り出したものという。
31-7.jpg 百草園のすぐ左隣に百草八幡宮がある。鳥居をくぐって急勾配の石段を登ると樹々で包まれた境内の正面に本殿があり、その右手少し離れて朱色に塗られた小さな阿弥陀堂がある。建長2年(1250)のものという阿弥陀如来坐像が安置されているという。境内には市指定天然記念物の百草シイノキ群がある。百草八幡神社の創建については次の様に伝えられている。永承6年(1051)陸奥の安倍時頼が反した時、源頼義は朝廷から追討の命を受けて陸奥国へ下向した。いわゆる前九年の役である。その下向の途中、頼義は百草山に霊気のあることを知り、携えてきた山城国の男山八幡宮神域の土を山上に埋め、社を建て宮を祀って戦勝を祈願したのが始まりと言う。下って康平7年(1064)頼義は京に凱旋の途、この八幡宮に御礼参りをし、源家の守り本尊千手観音の銅像その他を奉納し、祭田500石を寄進したと言う。

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。