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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №14 [文芸美術の森]

激動の時代に反撃する野十郎 4

          早稲田大学名誉教授   川崎  浹

 帰国、そして戦中、戦後 1

 昭和八年(一九九三三)、四十三歳の野十郎はヨーロッパから帰国後、久留米の生家に戻り、しばらく家や酒蔵をアトリエとするが、その後庭に椿柑竹(ちんかんちく)と名づけたアトリエを建てる。持ち帰った絵にさらに手をくわえて、「高島野十郎滞欧作品油絵個人展覧会」を福岡市の生田菓子舗で開くのは、翌々昭和十年(一九三五)である。総計六十七点。
 野十郎はヨーロッパ各地とニューヨークでも、かの地の石の文化、堅牢な建築類は避けて、自然の風景、また舟が浮かぶ海辺や川を好んで題材にして、印象派風にまとめている。ひとつには国外で一点の制作に長時間をかけられないことや、本人が楽しく遊ぶ気分でいたことに由来するだろう。
 展覧会の翌昭和十一年(一九三六)、実家との間にトラブルがあったといわれるが、縁を切って上京し北青山に住まう。昭和十二年(一九三七)十月に日本橋の白木屋で「高島野十郎滞欧作品展」を開いた野十郎は四十七歳。三ケ月前に日中戦争が生じ、日本社会は軍事一色に塗りこめられていく。翌々年、野十郎は大阪で滞欧作品展を開いた。さらに二年後の昭和十六年(一九四一)、この年の六月に画家は銀座の菊屋という所で個展を開くが、十二月に日本は真珠湾を攻撃し、米国に宣戦布告している。
 当時の雰囲気を知る私としては、真珠湾攻撃の六ケ月前だったので個展の開催ができ、幸運だったと思いこみがちだが、野十郎は二年後の昭和十八年(一九四三)十月にも同じ銀座の菊屋で個展を開き、《高原夕色》や《早春》などを展示している。この頃まで神宮球場で野球の早慶戦も開かれていたというから、余裕というものが意外な場所に隠れていることに驚かされる。
 この昭和十八年は敗戦二年前で、米軍が占領したガダルカナルから日本陸軍が撤退し、ラバウル基地で空軍が防戦に転じた頃。連合艦隊司令長官山本五十六が四月十八日ラバウル基地を視察に訪れたが、米軍が暗号を解読して撃墜、山本は戦死する。これは国民に戦況の逼迫を告げる不吉な兆候となった。
 さて野十郎は座禅一途に専念する兄との間も以前のようではなくなったが、昭和十八年、宇朗が福岡県太宰府の碧雲寺に移住したので、またちょっと距離が遠くなった。
 日需品や食料が配給制度になり、成人男女ともに町内会の軍事、防火の訓練に狩りだされたとき、五十三歳の野十郎はどうしていたのだろうか。徴兵されるには年をとりすぎ、工場に徴用された形跡もない。自らは従軍画家にもなろうとせず、戦況が悪化し物資不足がひどくなる中ひとり悠々と絵を措き、書物や経典に目を通していたのだろう。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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