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雑記帳2019-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-10-15
◆伊香保温泉、対象ロマンの館で竹久夢二の世界にひたる

群馬県は古来、位置的に日本列島のど真ん中にあり。日本のへそといわれてきました。
上毛三山の一つ、榛名山は2000年前に噴火、その後、今から400年ほど前に温泉がひかれた伊香保は、ちょうど、榛名山の中腹、海抜700メートルのところにあります。

竹久夢二美術館は生地岡山をはじめ、全国にいくつかあります。
伊香保は、滞在した期間はさほど長くはありませんでしたが、夢二がこよなく愛した土地でした。ここに、大正ロマンのテーマパークができ、夢二記念館はその森の中にあるのです。

毎年、9月の2週間だけ、この記念館で、夢二の「黒船屋」が特別公開されます。
夢二の代表作「黒船屋」のためだけにに造られたという「奥座敷」で、「黒船屋」をみることができると聞いて出かけました。

夢二の人気が絶頂にあった明治44年、一人の少女の手紙が夢二と榛名を結びました。
手紙をもらったものの、一度もおとずれたことがなかった伊香保を夢二が訪れたのは大正8年のことです。その後、昭和になって、伊香保温泉の人気は高まり、大勢の文人墨客が伊香保をおとずれるようになりました。この時期夢二の人気は下降気味でしたが、昭和5年、夢二は島崎藤村らの賛同をえて、伊香保に生活美術研究所をつくります。46歳のときでした。自然の中で、日常生活に必要なものを制作するという、人間の心の原点を榛名の自然にもとめたのでした。
その思いは昭和6年の「榛名山賦」に結実します。榛名山を背景に、春の女神、佐保姫を描いています。

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久方の 引けりたたえて 匂ふなり 榛名の湖に 春たちにけ里(榛名山賦)

絵だけでなく、夢二は、詩、短歌、俳句など、様々なジャンルの作品を残しています。、
デザイナーとしても千代紙、半襟、浴衣、封筒、便せん、うちわ、ポチ袋、手ぬぐいなど、残された小間物の作品は数知れず、まさに生活美術を地で行く仕事をするのです。

夢の実現のために海外へ資金集めに出かけるも、世界は経済恐慌のさ中、資金繰りはうまくいかず、友人とは仲たがいし、自身も病を得て帰国、長野県富士見高原療養所にて死去。49歳と11か月でした。

伊香保夢二記念館は昭和53年に開館しました。
壁や天井にステンドグラスをはめこむなど、夢二の時代の雰囲気を漂わせる建物です。

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夢二記念館本館
本館2 のコピー.jpg
入口天井のステンドグラス

本館ロマンの館の1Fホールには夢二の作品の展示とともに、100年以上前のピアノやオルゴールがありました。
ピアノは130年前のウイーンで作られたベーゼンドルファー。学芸員さんが、テネシーワルツにはじまり、ふるさとや宵待ち草などの日本の曲のメドレーを演奏してくれました。ベーゼンの深くやわらかな音色に当時がしのばれました。。
アメリカ製ジュークボックスに使われたオルゴールや、スイス製の家庭用オルゴール、立型の大きいドイツ製のオルゴール、いずれも100年以上前のものだということです。曲も、宵待ち草やアベマリア。と、窓のステンドグラスとともに、さまざまに大正の雰囲気を醸し出すしかけです。

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ホールのピアノやオルゴール
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売店窓のステンドグラス

2Fは夢二の代表作が展示されています。
前出の「榛名山賦」は屏風絵になっています。渡米前に制作しました。
もう一つの代表作「青山河」はアメリカで描かれました。夢二には珍しく油絵です。
これも折屏風になっていて、バックに描かれているのははやはり榛名山です。
モデルは亡くなった恋人の彦乃に自身のイメージを重ねたといわれています。

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ロマンの館に接する本館、黒船館は夢二の代表作「黒船屋」の寄贈をきっかけに建てられました。
3Fの奥座敷に通じる階段やロビーには、夢二の愛した生活美術の観点から館がコレクションしたアンティークの豆皿、ランプが壁いっぱいにかざられています。

蔵座敷は「黒船屋」のための部屋です。
江戸時代に作られたという鉄製の重い扉を開けると、床の間にかけられていたのは、年に2週間だけ公開されるという「黒船屋」の掛け軸でした。
この絵が描かれたのは大正8年、ちょうど100年前でした。
画家として油がのっていたにもかかわらず、恋人、彦乃と引き離された失意のうちに絵が描けなくなっていた夢二に、再び絵筆を持つよう、持ちかけたのは表具師の飯島勝次郎でした。
黒い額縁を表装した「黒船屋」は評判となり、飯島はこの作品で受賞しました。記念に飯島はあるだけの金をかき集めて買いとろうとしましたが、夢二がその半分の75円しかうけとらなかったという逸話がのこっています。
飯島からコレクターの長田幹雄に譲られた絵は、のちに永田の友人の夢二記念館の館長木暮享に無償で譲られました。「黒船屋」は、お金を介在せずに守られた珍しい作品です。
木暮はこの絵が一番美しく見えるように蔵座敷を造ったのでした。
蔵座敷に入ると、扉は閉ざされて、客と学芸員(亭主)だけの空間になる。そこで学芸員さんの説明を聞きながら、客は床の間の黒船屋と向き合う、贅沢な時間をすごすのです。

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黒の額縁で表装された奥座敷床の間の黒船屋
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絵葉書の黒船屋

夢二と彦乃が出会ってわかれるまで6年。彦乃をモデルに描いた「黒船屋」は夢二の最高の傑作となりました。
「黒船屋」は夢二の自伝小説「出船」に登場する架空の店名。夢二が日本橋呉服町に営んだ「港屋」がモデルといわれています。港屋は夢二がデザインした小者類を販売して、東京名所の一つになっていました。

「大正ロマンのテーマパーク」の敷地内にはほかに新館と別館があります。
新館は「義山楼(ぎやまんろう)」と呼ばれ、明治、大正のガラスの器の展示されています。

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魏山朗の展示の一部

別館は「子供絵の館」です。ここには、「子どもの友」「新少女」「中学世界」などの雑誌に夢二が描いた表紙や挿絵、ポスターが展示されています。夢二のデビュー作「筒井筒」もありました。デザイナーとしての仕事もさることながら、これらの多くの仕事を精力的にこなしていたことに、夢二の意外な一面を見る思いがしました。

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子どもの館外観と内部

榛名湖畔の、榛名神社にむかう丘の中腹に夢二のアトリエがあります。
昭和4年から5年にかけて、夢二45歳の時、榛名湖畔にアトリエをたて、生活と芸術を結ぶ運動「榛名山美術研究所」を宣言した場所です。
木造2階建て。1Fにアトリエ、2階に和室と厨房がある、シンプルな造りでした。
夢二はここから眺めた榛名山を生涯愛し、作品の随所に榛名山を描きました。
渡米して活動する中でも、榛名に帰ってこの経験をいかしたいと願い、療養中にも心は常に榛名にとんでいたといいますから、あたかも人を恋するように榛名を恋うた、その一途さには脱帽するしかありません。

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坂の下から望む夢二のアトリエ
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アトリエへ向かう道端にはシモツケソウやツユクサなどの野草がいっぱい。
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榛名湖 正面は榛名富士(榛名山は榛名湖を造った火山を総称して呼ぶ名前。一番高いのが春奈富士です)

アトリエから程近い湖畔に夢二の歌碑が建っています。昭和10年、夢二の一周忌に有島生馬の提唱でたてられました。

夢二歌碑 のコピー.jpg
さだめなく 鳥にうくらむ 青山の 青のさびしさ かぎりなければ

伊香保温泉を訪れる観光客は多くても、榛名湖やアトリエまで足を伸ばす人はあまり多くないのかもしれません。ちょっとさびれた感じの湖畔の風景が、実は人のにぎわう観光地よりも夢二には似合っているように思われました。

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