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対話随想余滴 №23 [核無き世界をめざして]

  余滴23  関千枝子から中山士朗様

                 エッセイスト  関 千枝子
 
 お元気になられたようで、安心いたしました。とにかくこの夏の暑さ、天候不順、高齢者の体にはよくないようで、気をつけなければなりません。
 この前は、台風15号の影響を心配してくださり電話を頂きましたのに、そっけない応対ですみませんでした。実はあの時、全国ニュースではよくわからなかったと思いますが、千葉の酷さがもうわかっていまして、ちょっと、カリカリしていました。とにかく、台風後十日以上たってもまだ停電だの断水など、尋常ではありません。
 考えてみますと、あの原爆の後、停電は続きました。私のいた宇品など焼けてない地区で、電気が戻ったのは八月十日ごろだったと思います。しかし当時、電気は、照明以外は、ラジオ、アイロン、扇風機くらい、そんなものもない家が多かったかもしれません。今、電気がなければどういうことになるか。本当に生活は何一つできないですね。
 それに、あの時の広島で凄かったのは、水道が止まらなかったことです。私たち、これを当たり前のように思っていましたが、水道が止まると大変な事は、九月の枕崎台風の時わかりました。(枕崎台風の後、宇品では水が引くまで、半日くらい水道が止まり、翠町の井戸のある家まで水を汲みに行ったこと覚えています)。宇品地区は井戸が掘れないところですから(埋立地ですから)、あの原爆の時水が止まったらどんなことになったか。水道関係の人びとの大変な苦労があったと聞きましたが、すごいことでした。
 それからはるかに生活などの技術は進んでいるはずなのに、台風15号の被害の酷さ、対応の悪さ。とにかく千葉県や政府の動きがおそく、四,五日経ってから。政府は内閣改造でそれどころではなかったみたい。事態が伝わらない情報手段の途絶えもあったでしょうが。千葉だけでなく、東京都でも伊豆大島も酷かったのですが、安倍首相が動いたのはつい先日。ほんとに困ったものです。大島だの、千葉でも南の方(はずれ)は、無視されている感じがします。電柱が倒れても山の中だから気が付かない?腹立たしいです。
 私、毎日新聞に入って最初に配属されたのが千葉支局でした。ですから、なじみのある地名も多く、本当に腹立たしいです。
 ここまで書いてきて今日の新聞(九月二十三日)を見ましたら、屋根瓦が飛ぶ(雨漏りで家がびしょびしょになっても)、外壁が崩れガラスが割れても一部損傷ということなのだそうで、国の補助は出ないのだそうです。腹が立ってきました。国民の安全を叫び、軍備にものすごい金をつかい、トランプにお世辞を使って入りもしないトウモロコシを買う金を、こういうことの支援に使ってもらいたいのに!
 
 なんだか予定していなかったことを。長々と書いてしまいました。

 実は前の余滴二十一で、スぺ-スの関係で書けなかったことの補足を。
 村上俊文さんの会で、参加者から思いがけない質問があったのです。それは、平和記念公園の中に、アンネ・フランクの形見の薔薇が咲いている。それを寄贈したのは京都府綾部の方ですが、それを仲介したのはヒバクシャという記事がある、このヒバクシャは、あなたの姉の黒川万千代さんではないか、という質問です。多分それは黒川のことだと思うと言い、姉がアンネ・フランクの研究に没頭し、あちこちに、アンネの薔薇を広げる運動をしていることを話しました。そうしたら、この方は植物に興味を持っておられる方らしく、ハマユウの話まで出てき、さまざまな新聞等のコピーまでいただきました。
 ハマユウというのは、広島市比治山で被爆した尾島良平さんという元兵士が、焼け跡に緑の葉を出しているハマユウを発見、鎌倉の自宅に持ち帰り栽培。神奈川県の被団協のシンボルのようになっていたのですが、一九六九年広島市に寄贈。このハマユウを、一九八八年ロシア正教会一千年記念式典に招待された黒川が。広島市に頼み、三株分けてもらい、ロシアに贈ったのです。そんな昔の記録を読み、薔薇も黒川に違いないと思いました。
このごろ、ヒロシマの木と言えば沼田さんの青桐ばかりでハマユウのことなど言う人もなく、私もすっかり忘れていたのでびっくりしました。それで、いろいろ説明し、黒川が八年前に急性白血病で死んだことなども言うことになってしまいました。
この方、村上さんとは知り合いではなく、集会のチラシをどこかで見て参加されたようです。
いろいろな方がいろいろな方面からヒロシマ、原爆に拘っておられることを知りました。

 広島から帰ってからもいろいろごちゃごちゃあったのですが、八月十一日に都下調布市に行ったことを報告いたします。調布市は「非核平和都市宣言」をしている都市で、今年はその三二回目を記念する集いです、この集いの実行委員に、画家の津田櫓冬さんがおられまして、これもずいぶん前、丸岡秀子さんを偲ぶ会をやりまして、会の中心の一人津田さんと知り合いました。彼は長く調布の市民だったのですが、今住まいは移されていますが、まだ調布で活躍中です。津田さんから連絡があり、今年は、私の講演で行くとお誘いがありました。この平和の集い大掛かりで、パネル展示などもあり、講演の会場も広く百人くらいは入れそうで緊張しました。一生懸命に話しましたが、皆様とても喜んでくださり、本もよく売れました。九月に入ってから連絡があったのですが、この日の報告を冊子になさるそうでとても喜んでいます。
 私も骨折後,調布に行くのは初めてで、時間通り行けるかどうかかなり緊張して行ったのですが、とにかく、私も、元気を頂けた日でした。
 八月一七日は、丸木美術館に行き、アーサー・ビナードさんの原爆紙芝居を見、アーサーさんのこの紙芝居にかける思いを聞きました。
 アーサー・ビナードさんの紙芝居、なぜ?と思ったのですが、彼が、紙芝居という日本独自の文化に以前から非常に興味を持っておられたことを知り、単なる思い付きで始められたのでないことがわかりました。彼はこの紙芝居を作るのに数年がかりで、すでに二度試作品を作り上げ、これが三作目であることを知り、まずこれに感動してしまいました。しかし、なぜ原爆の紙芝居に丸木さんの作品からなのか、そのあたりもっと詳しく知りたかったし、丸木美術館の学芸員岡村さんが質問してくださるというので、期待していたのですが、アーサー・ビナードさん、よくしゃべる方で、話し出すと止まらず、岡村さんの質問も二つくらいで時間が来てしまいました。私の少しの質問、十一月に、例の竹内さんの会で、ビナードさんを招き話を聞くので、行ってみようかと思います。
 それにして遠い、不便としかいいようのない丸木美術館まで(私は二時間半以上かかって行きました)大勢の参加者があったのには驚きました。予約を取り六〇人で締め切ったのですが、満員で、断られたれた方もあったようです。帰りのタクシーで(丸木美術館は駅まで遠くてとても歩けません)一緒に乗り合わせた方は神戸から来たとのこと、遠方から来た方は多かったようで、すごい人気ですね。驚きました。
 
 このほかにも、とてもいいプランがあり、報告ができると思ったのですが、それはまだいろいろハードルがあり、報告に至りません。次回には何とかなると思います。
 ここまで書いたところで調布から報告集のゲラや、さまざま資料などが届いたのですが、驚きました。調布には、広島一中、国泰寺高校関係者が多いそうです。今年も私の講演会とは別に八月一日から八日まで原爆展をやったらしいのですが、語り部四人のうち三人が国泰寺高校ゆかりの方だったそうです。こうした情報を教えてくださったのは調布市民でこれも中山さんと同期の丸本規雄さんで、丸本さんは覚えておられると、思いますが。調布市の被団協の会長も国泰寺高校の九回生だそうです。なんだか縁があるのですね。あんまり驚いたので、付け加えました。
もうひとつつけくわえ 千葉で問題になった一部損壊、今回は特例措置で国の援助があるそうです。災害の規模、激しさが変わっている今、国の規定等、見直すべきですね。

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