立川陸軍飛行場と日本・アジア №182 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
立川陸軍飛行場と日本・アジア №182
近現代史研究家 楢崎茂彌
前回、早い夏休みを取って10月上期から復活します、と書いたのですが、下期になってしまい申し訳ありません。7月から8月に上映したシリーズ「立川の戦争」3本は、どの回も60人前後の方に来ていただき、盛況でした。参加者の中には空襲体験者もおられて、またお話を聞くことが出来ます。9月14日、15日に行なわれた「立川名画座通り映画祭」では、僕が制作した“砂川に墜落したB29”が全体のトリを勤めさせてもらいました。今後も戦争体験者の方々に取材して、戦争の実態を伝えて行きたいと思います。
第三中隊にコンクリートの整備地盤を新設
連載NO175で触れましたが、陸軍飛行第五連隊は編成替えにより、第三・第四中隊には戦闘隊が配置され、それに伴って様々な整備が行なわれました。飛行回数の激増に対応して、整備隊の兵舎が増築され、まず手始めに第三中隊にコンクリートの整備地盤が新設されます。「読売新聞・三多摩読売」(1933.10.24)は“この結果戦闘整備隊の頻繁なる飛行演習に敏速なる作業を実施し得るため飛行練習その他演習が著しく経済化される筈で頗る期待されている”と書いています。戦闘隊の格納庫から整備を始めたことからも、第五連隊の性格が大きく変わり始めていることが分かります。しかし、上の写真を見ても、コンクリートの整備地盤とはどんな物なのか分かりませんね。
昭和16(1941)年6月に旧陸軍が撮影した空中写真でみると整備地盤とは、右下(東南)に南から北へ第1~第4中隊の順に並んだ格納庫から西に細長くのびるコンクリートの野外作業場のことのようです。南から5棟目の建物は格納庫ではなく材料廠です。
左下(西南)の多数の飛行機は、陸軍航空廠立川支廠にやって来た新造機や修理機です。立川陸軍飛行場には昭和16年になってもコンクリートの滑走路がなかったことが分かりますね。
別影と雲秀が引退
別影・雲秀と言っても相撲取りではありません。東京府下に置かれた唯一の憲兵分遣隊である立川憲兵分遣隊の二頭の軍馬です。連載NO.89には“分遣隊長以下6名と馬一頭”と書きましたが、いつの間にか拡充していたのですね。別影は18才、雲秀は15才、老齢でその職に堪えずとして現役を退くこととなった訳です。日本ダービーの出走馬は3才ですから、確かに高齢です。2頭は東京の憲兵隊に送られたのち、民間に払い下げられるのですが、2頭の面倒をみてきた馬丁の前橋西松君は次のように語ります。“軍馬もつまりませんね。思えば気の毒ですよ。充分働ける内はよいとして、老後を保証されないのですから。別影とは去年の十一月からですが、雲秀は三年間の交際で私の気持ちはすっかり知っていますから、実際二頭とも今後どうなるかと思うと可哀想でなりません”(「読売新聞・三多摩読売」1933.11.16)。前橋君はせめてものはなむけに二頭と記念写真を撮りました。
記事も“軍都立川や多摩の山野にカツカツたる蹄鉄の音高く闊歩した雄志を最後として野に下る良馬の将来は、だれが幸福であると予想しようか”と同情的です。
世間でも同じような声が高まっていたようで、この年(昭和8年)11月、財団法人・軍馬愛護協会が設立されます。趣意書は、満州事変では軍用動物が活躍し表彰されることがあるが、現役を去ったのちの末路は“無理解なる飼養者の手に委せられむか、或は彼等の酷使虐待の下に其の余生を終わり、或は転々流浪して遂に茅野に斃るるものなきを保ちがたし“と嘆き、軍馬愛護協会寄付行為は“第二章 目的及事業
本会ハ出征軍馬ヲ慰撫シ功労アル軍馬ニシテ除隊セラルルモノヲ表彰シ、其ノ余生ヲ完カラシメ延イテ国民ノ軍馬ニ対スル愛護観念ヲ助長スルコトヲ以テ目的トスル”と謳っています。
大正3(1914)年に陸軍省が発行した「馬事提要」も、軍馬の除役の節で“第十七 除役馬ハ懇切ニ取リ扱ヒ愛護ノ精神ヲ以テ軍馬奉公ノ労ニ犒(ねぎら)ヒ購買者ニ対シテモ愛養ヲ望マザルベカラズ”としているのに、それから20年も退役軍馬の扱いはあまり変わっていないようです。
別影と雲秀が引退した6日後に、満州の第一線から桃川号と寿号が立川憲兵分遣隊に着任します。両馬は昭和6(1931)年4月に新京(現・長春)に出動し、満州事変が始まると吉林に出動、いずれも大尉が乗馬していました。桃川号は15才、寿号も15才、何と“老齢でその職に堪えず”とされた雲秀と同い年です。「馬事提要」によれば、軍馬は、軍馬補充部が2~3才で購入して育成する“育成馬”、5才~6才で購入して直ぐに部隊で使う“牡馬”、部隊の定数外になったがまだ軍役に堪える“過剰馬”に分けられます。つまり、前線部隊の過剰馬が立川憲兵分遣隊に赴任してきたわけです。「馬事提要」は、“第十三 軍馬ノ服役期間ハ概ネ八年乃至十年トスルモ各馬ノ素養及保育ノ良否ニヨリ著シキ差ヲ生スルヲ以テ取扱者ハ深クコノ点ニ注意スルヲ要ス”としています。15才の桃川号と寿号は退役してもよい年です。憲兵隊の陸軍内での地位を窺わせる人事じゃなくて馬事ですね。
なお、「読売新聞・三多摩読売」(1933.11.24)は、憲兵分遣隊から払い下げになった別影号は、立川町名誉助役の井上権吉氏が購入し、同好の士を集めて乗馬倶楽部を組織することになったと報じています。まずは良かった。
喜びの除隊式 求職者は全員就職決定
11月18日、現役兵174名、幹部候補生30名の除隊式が行われました。除隊した現役兵たちは、20日には、地方服(軍隊では一般社会のことを“地方”と言いました)に着替えて父母や親戚に迎えられて郷里に帰ります。この年の求職依頼者は例年に比べると40名と少なく、連隊が四方八方手を尽くして全員の就職が決まりました。「読売新聞・三多摩読売」(1933.11.19)によると、就職先は、三菱9名、石川島飛行機製作所2名、中島飛行機2名、東京無線2名、明野飛行学校5名、陸軍航空本部技術部1名、治工塗料1名、巡査1名で、さらに、17名がスミダ自動車製作所に採用予定であるとしています。スミダ自動車とは、乗用車「スミダ」を製造した石川島自動車製作所のことです。石川島自動車製作所(現・いすゞ自動車)は日本初の乗り合いバス「スミダM型バス」を昭和4(1929)年に製造しています。このバスは「近代化産業遺産」に認定されました。
就職先をみると、この除隊兵たちは有能な技術者に育ったように思われます。
写真1 「新設工事中の整備地盤」 読売新聞・三多摩読売 1933.10.24
写真2 「立川飛行場」 旧日本陸軍 1941.6.25撮影(国土地理院提供)
写真3 「前橋君と老軍馬二頭」 読売新聞・三多摩読売 1933.11.16
写真4 「武勲の両馬」 読売新聞・三多摩読売 1933.11.24
第三中隊にコンクリートの整備地盤を新設
連載NO175で触れましたが、陸軍飛行第五連隊は編成替えにより、第三・第四中隊には戦闘隊が配置され、それに伴って様々な整備が行なわれました。飛行回数の激増に対応して、整備隊の兵舎が増築され、まず手始めに第三中隊にコンクリートの整備地盤が新設されます。「読売新聞・三多摩読売」(1933.10.24)は“この結果戦闘整備隊の頻繁なる飛行演習に敏速なる作業を実施し得るため飛行練習その他演習が著しく経済化される筈で頗る期待されている”と書いています。戦闘隊の格納庫から整備を始めたことからも、第五連隊の性格が大きく変わり始めていることが分かります。しかし、上の写真を見ても、コンクリートの整備地盤とはどんな物なのか分かりませんね。
昭和16(1941)年6月に旧陸軍が撮影した空中写真でみると整備地盤とは、右下(東南)に南から北へ第1~第4中隊の順に並んだ格納庫から西に細長くのびるコンクリートの野外作業場のことのようです。南から5棟目の建物は格納庫ではなく材料廠です。
左下(西南)の多数の飛行機は、陸軍航空廠立川支廠にやって来た新造機や修理機です。立川陸軍飛行場には昭和16年になってもコンクリートの滑走路がなかったことが分かりますね。
別影と雲秀が引退
別影・雲秀と言っても相撲取りではありません。東京府下に置かれた唯一の憲兵分遣隊である立川憲兵分遣隊の二頭の軍馬です。連載NO.89には“分遣隊長以下6名と馬一頭”と書きましたが、いつの間にか拡充していたのですね。別影は18才、雲秀は15才、老齢でその職に堪えずとして現役を退くこととなった訳です。日本ダービーの出走馬は3才ですから、確かに高齢です。2頭は東京の憲兵隊に送られたのち、民間に払い下げられるのですが、2頭の面倒をみてきた馬丁の前橋西松君は次のように語ります。“軍馬もつまりませんね。思えば気の毒ですよ。充分働ける内はよいとして、老後を保証されないのですから。別影とは去年の十一月からですが、雲秀は三年間の交際で私の気持ちはすっかり知っていますから、実際二頭とも今後どうなるかと思うと可哀想でなりません”(「読売新聞・三多摩読売」1933.11.16)。前橋君はせめてものはなむけに二頭と記念写真を撮りました。
記事も“軍都立川や多摩の山野にカツカツたる蹄鉄の音高く闊歩した雄志を最後として野に下る良馬の将来は、だれが幸福であると予想しようか”と同情的です。
世間でも同じような声が高まっていたようで、この年(昭和8年)11月、財団法人・軍馬愛護協会が設立されます。趣意書は、満州事変では軍用動物が活躍し表彰されることがあるが、現役を去ったのちの末路は“無理解なる飼養者の手に委せられむか、或は彼等の酷使虐待の下に其の余生を終わり、或は転々流浪して遂に茅野に斃るるものなきを保ちがたし“と嘆き、軍馬愛護協会寄付行為は“第二章 目的及事業
本会ハ出征軍馬ヲ慰撫シ功労アル軍馬ニシテ除隊セラルルモノヲ表彰シ、其ノ余生ヲ完カラシメ延イテ国民ノ軍馬ニ対スル愛護観念ヲ助長スルコトヲ以テ目的トスル”と謳っています。
大正3(1914)年に陸軍省が発行した「馬事提要」も、軍馬の除役の節で“第十七 除役馬ハ懇切ニ取リ扱ヒ愛護ノ精神ヲ以テ軍馬奉公ノ労ニ犒(ねぎら)ヒ購買者ニ対シテモ愛養ヲ望マザルベカラズ”としているのに、それから20年も退役軍馬の扱いはあまり変わっていないようです。
別影と雲秀が引退した6日後に、満州の第一線から桃川号と寿号が立川憲兵分遣隊に着任します。両馬は昭和6(1931)年4月に新京(現・長春)に出動し、満州事変が始まると吉林に出動、いずれも大尉が乗馬していました。桃川号は15才、寿号も15才、何と“老齢でその職に堪えず”とされた雲秀と同い年です。「馬事提要」によれば、軍馬は、軍馬補充部が2~3才で購入して育成する“育成馬”、5才~6才で購入して直ぐに部隊で使う“牡馬”、部隊の定数外になったがまだ軍役に堪える“過剰馬”に分けられます。つまり、前線部隊の過剰馬が立川憲兵分遣隊に赴任してきたわけです。「馬事提要」は、“第十三 軍馬ノ服役期間ハ概ネ八年乃至十年トスルモ各馬ノ素養及保育ノ良否ニヨリ著シキ差ヲ生スルヲ以テ取扱者ハ深クコノ点ニ注意スルヲ要ス”としています。15才の桃川号と寿号は退役してもよい年です。憲兵隊の陸軍内での地位を窺わせる人事じゃなくて馬事ですね。
なお、「読売新聞・三多摩読売」(1933.11.24)は、憲兵分遣隊から払い下げになった別影号は、立川町名誉助役の井上権吉氏が購入し、同好の士を集めて乗馬倶楽部を組織することになったと報じています。まずは良かった。
喜びの除隊式 求職者は全員就職決定
11月18日、現役兵174名、幹部候補生30名の除隊式が行われました。除隊した現役兵たちは、20日には、地方服(軍隊では一般社会のことを“地方”と言いました)に着替えて父母や親戚に迎えられて郷里に帰ります。この年の求職依頼者は例年に比べると40名と少なく、連隊が四方八方手を尽くして全員の就職が決まりました。「読売新聞・三多摩読売」(1933.11.19)によると、就職先は、三菱9名、石川島飛行機製作所2名、中島飛行機2名、東京無線2名、明野飛行学校5名、陸軍航空本部技術部1名、治工塗料1名、巡査1名で、さらに、17名がスミダ自動車製作所に採用予定であるとしています。スミダ自動車とは、乗用車「スミダ」を製造した石川島自動車製作所のことです。石川島自動車製作所(現・いすゞ自動車)は日本初の乗り合いバス「スミダM型バス」を昭和4(1929)年に製造しています。このバスは「近代化産業遺産」に認定されました。
就職先をみると、この除隊兵たちは有能な技術者に育ったように思われます。
写真1 「新設工事中の整備地盤」 読売新聞・三多摩読売 1933.10.24
写真2 「立川飛行場」 旧日本陸軍 1941.6.25撮影(国土地理院提供)
写真3 「前橋君と老軍馬二頭」 読売新聞・三多摩読売 1933.11.16
写真4 「武勲の両馬」 読売新聞・三多摩読売 1933.11.24
2019-10-10 19:30
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