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論語 №83 [心の小径]

二六五 閔子(びんし)側(傍ら)に侍す、闇闇(ぎんぎん)如(じょ)たり。子路(しろ)行行(こうこう)如たり。冉有(ぜんゆう)・子貢侃侃(かんかん)如たり。子楽しむ。のたまわく、由(ゆう)やが如きは、その死の然(しか)るを得ざらん。

                法学者  穂積重遠
         
 「若由也」を「由がごときは」とよんでもよいが、「也」は親愛の呼び方で、わが国で女中を呼んで「梅や」「竹や」というようなものだろうから、「由や」とよんでおきたい。「不得其死然」の「然」は「焉」と同じだというので、「その死を得ざらん」とよむ人もあり、また「その死を得ず、然り」とよむ人もある。あるいは「その死然を得ざらん」とよんでもよいかも知れぬ。前記は自己流のよみ方だ。

 閔子騫(びんしけん)が行儀よく、子路が強そうに、再有と子貢とが楽しげに、お側に侍べっている。孔子様も嬉しそうだ。しかし子路のこの気性では畳の上では死ねまいと常に心配しておられた。

 「子楽」は「子日」の誤写だ、という説があるが、とんでもない。この二字が本章の眼目なのだ。私も及ばずながら弟子をもったことがあるので、孔子様の気持がよくわかる。『孟子』(尽心章上)の左の一段は、私の同感共鳴するところだ。
 「君子に三楽あり。而して天下に王たるものは与(あずか)り存せず。父母俱(とも)存し兄弟故なきは、一(いつ)の楽しみなり。仰いで天にに愧(は)じず、俯(ふ)して人にはじざるは、二の楽しみなり。天下の英才を得てこれを教育するは三の楽しみなり。君子に三楽あり。而して天下に王たるは与り存せず。」心(こころ)安だてに叱りもし、またからかわれもしたが、孔子様は子路には特別の親愛をもたれたことが、ここでもわかる。最後の句は子路に対して注意された言葉だとの説もあるが、そうではあるまい。陰ながら常に心配しておられた、とする方が情がある。そして孔子様のご心配どおり子路は衛(えい)の国の内乱の際切り死をした。敵に一太刀切られて後、落ちかかった冠の紐を結び直して死んだという。孔門の勇者らしい最期であった。

二六六 魯(ろ)人長府(ちょうふ)を成(つく)る。閔子騫いわく、旧貫(きゅうかん)に仍(よ)らばこれを如何(いかん)。何ぞ必ずしも改め作らん。子のたまわく、かの人言わず。言えば必ず中(あた)るあり。
 
 「府」は蔵だが、財物を入れるのが「府」で、武器を収めるのが「庫」だ。「長府」は蔵の名である。

 魯の当局者が長府を新築しようとしたとき、閔子騫が、「元のものを修復したらどんなものだろうか。何も新築するにも及ぶまい。」と言った。孔子様がそれを伝え聞いておっ
しゃるよう、「あの男はメツタに物を言わぬが、言うと必ず図星という所に当るわい。」
                                        
 閔子騫の言葉は簡単だが、長府の新築は無益に民力を費すものだし、もしそれを拡張するのなら増税の準備と思われる。いずれにしても宜しくない、という意味なので、孔子様が、わが意を得たり、とされたのである。

ニ六七 子のたまわく、由(ゆう)の瑟(しつ)、なんすれぞ丘(きゅう)の門においてせんと。門人、子路を敬せず。子のたまわく、由や堂に升(のぼ)れり、未だ室に入らざるなり。

 「瑟」は「琴瑟相和(きんしつあいわす)」の瑟。琴の十三弦に対して二十五弦である。朝鮮京城の李王家の楽部で、これが琴、これが瑟という実物を拝見して、おもしろく思ったことがある。「堂」は表座敷、「室」は奥の間。安井息軒(そっけん)の説明に、「堂は賓客(ひんきゃく)に接し礼楽(れいがく)を行うの処(ところ)、室はその奥なり、以て道の源(みなもと)に喩(たと)う。」とある。「瑟」の上に「鼓」の字があって、「由の瑟を鼓する」とよめる本もある。
                                        
 子路は性質が剛強(ごうきょう)なので、そのひく瑟にもおのずから殺伐な音がある。そこで孔子様が、「由の瑟はわしの家には似合わしからぬ。」と言われた。それを聞いて若い門人たちが子路を尊敬せぬ気味だったので、それをたしなめておっしゃるよう、「由は表座敷へ通ったがまだ奥の間にはいらぬのじゃ。お前たちはまだ表座敷へもあがっていないのだよ。」

『新薬論語』 講談社学術文庫


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