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渾斎随筆 №42 [文芸美術の森]

原宏平大人
                     歌人  会津八一

 私が初めて原さんの名を聞いたのは、いくつの時であったか。恐らく赤ん坊の時から聞いてゐるのであらう。日清戦争が始まって、新発田の十六聯隊も出征するといふので、その頃は、まだ小学校の生徒であった私は、先生に連れられて、兵式用の木銃をかついで、葛塚まで川蒸汽、それから先は歩いて行って、あちらの練兵場で挙行された盛大な歓送式に参列したものだが、その式の最後に、フロックコートにシルクハットで威儀を正した一人の背の高い立派な人が、ふさふさとした頬ひげを風に靡かせながら、進み出て、何か紙に書いたものを、読むのを、会場の遠い隅から眺めて、何となく堂堂とした偉らさうな人だと思った。あとで人に開くと、新発田の町長で越後第一の歌詠みとして名高い原宏平さんだといふことであった。その頃の私はシルクハットといふものを、これが初めてで、驚きの目を見張ったほどの若さであったから、その歌詠みの歌として、どんな歌があるのか、たづねても見なかつたであらう。
 その後四五年すると、私は、まだ中学校に在学のうちに俳句を作り初め、同時に歌も作るやうになった。するとまもなく「東北日報」の俳句の選者を頼まれることになり、それから明治三十一年の春中學を卒業して、翌翌年の春までの間に、「新潟新聞」と両方の選者を兼ねたりするやうになった。この「東北日報」といふのは、大竹寛一、萩野左門などいふ人たちの新聞で、その頃の主筆が、後に「北越名流遣芳」を著した今泉木舌君で、俳句欄は私、漢詩の方は武石貞松君、和歌は原さんであった。その頃「新潟新聞」には、「小金花作」といふペンネイムで、山田殻城といふ新派歌人が居たが、新年やなどには、山田一派のほかに、在来風の歌は、やはり原さんが選んでゐられたやぅに覚えてゐる。だから、私はそちらでも、募集廣告などに、原さんと名を並べて出たものであった。
 その後も私は、ちょっとの間、俳句のことで「新潟新聞」や「高田新聞」などに関係したこともあるが、それもすぐ手を引いて、それから俳句の方にはだんだん遠くなり、歌の方を少しつつ今もやってゐるのである。が、田舎には、根気よく古い頃のことを覚えてゐる人があって、このまへに ― たしか十二三年前に ― 私が早稲田の総長の田中君や、春城老人などと新発田へ講演に来て、その足で、新潟へも廻って、久しぶりにいろいろの人にも遇った時に、扇子などを出して、俳句を一つと所望する人はいくらもあったけれども、歌をといふ人は無かった。つまり郷土では、その頃はまだ、誰も私の歌を認めてくれなかった。そして歌といへば、やはり一も二もなく原さんとしてゐたらしい。
 しかし、こんど新潟へ帰ってみると、十二三年の間に、そこのところが少し様子が変わってゐる。もと私が、俳句をやったことを知ってゐる人は、まるで無くなって、その代りに、中學生や女學生で、私の歌集を持ってゐる人がだんだん出来て来たときいてゐる。けれども、若い方では原さんの歌、歌詠みとしての原さんを知ってゐる人は、殆どないし、老人の方でもそれがまるで無くなってゐるらしい。この調子で、いま十年もしたら、もつと減ってしまふかも知れぬ。それを思ふと原さんにも気の毒になるし、何となくさびしい気持ちになる。
 私は、さきにもいつたやうに、原さんとは久しい因縁はあったが、不思議にかけちがって、あのシルクハットの時から、一度も御目にかかったことがなかつたが、まだ東京落合の不動谷といふ所に住んでゐる頃、原さんから一過の手紙につけて短冊を二枚送ってよこして、それへ俳句を書けといふことで、あちらからは自分で歌を書いた短冊を、五六枚くれてよこされた。
 それから、その手紙は、こまごまと長い手紙で、越後では、誰が何といっても、俳句は君、和歌は自分、漢詩は坂口五峰、この三人は決して動かない。だからこの三人が、近いうちに顔を合せて、一會催したい。君のところは、庭も贋く景色もいいと聞いてゐるから、その合合は御宅でやってほしい。新聞記者や在京の数人で希望するものは、陪席を許してもいい。ことによると国もとから見物に来るものがあるかもしれぬから、それも苦しくないことにしたい。とこんなことがいろいろあった。
 私はその時、四十三四、坂口さんは六十五六、原さんは八十あまりで、まるで二十づつ達ふ違ふ級数になるが、その頃ちゃうどその前後、坂口さんは折々宅へ遊びに見えられたので、ある時私からその話をすると、何もそんなに人為に人騒がせしなくともいいでせうと坂口さんはちっとも気乗りのしない様子であり、私の考へも同じことであったから、そのまま御流れにしてしまった。けれども原さんはその後にも、一二度押しかへしての手紙で、その熱意を漏されたが、それから、とやかくするうちに坂口さんも原さんも亡くなられた。
 そこへ、あの「新万葉集」の編輯が持ち上った。いつかも書いた通り、私自身の歌を出して貰ふのは、何度もことあったが、私は、ふと原さんのことを思ひ出して、この編輯の事務的方面に當つてゐた人-たしか大橋松平君であったとおもふがー訪ねて見えた時に、もしこの歌集が明治、大正、昭和の三代を代表するものになるのならば、この人の歌を出してほしいとくれぐれも頼んでおいたので、出ることとばかり思ってゐたのに、いよいよ出来て見れば一首も出てゐない。これはほんとに残念であった。正直にいへば、私は若い時から、原さんの歌はあまり好きでなく、勿論感服してゐなかった。けれども、縣下では相常に長い間随分有名で尊敬された人であったし、縣外でも、ひところは、明治の三平の一人とかいつて、飯田年平、海上胤平などと並び稱せられたこともあるといふし、第一自分でもあの通り強い自信があったのであるから、私などと趣味が合ふとか合はぬとかいっても、それは別として、やはり、新潟といふ大縣の、ある時代の代表者の一人として、出るべきところへは出して上げるのが順當であったと、今も私は思ってゐる。私などの厳しい標準で臨むことになれば、「新万葉集」でも、もつと前々からの選集でも、 気にいらぬ歌は、いくらもあるから、何も原さんだけをかれこれ褒めるにも 当たらない。とにかく出すところへは出して上げて、さてその上で、好くとか好かぬとか、いいとかわるいとかの論に入るべきである。かへすがへすも残念なことであった。
                『夕刊ニイガタ』昭和二十二年三月十四日

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