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じゃがいもころんだⅡ №18 [文芸美術の森]

 大森と渋谷

             エッセイスト  中村一枝

 渋谷駅がいま大がわりしているらしい。いろいろのところが変わるのはそときの流れとして当然のことだが、それにしてもわたしは地元である大森の余りの変化のなさについ一言言いたくなる。京浜東北線大森と言う駅は昔からそれほど晴れ晴れしい駅ではない。何しろ昭和の始め駅舎の下に海が来ていたそうだから、かなりひなびた土地柄だったに違いない。わたしが赤ん坊で私を抱いた父がおっかなそうに歩いている写真を見たことがる。大森海岸夏の風景だった気がする。その頃の、駅のそばの、古いガードが今もそのまま残っている。「大森って東京都なの、神奈川県じゃないの。」と以前きかれた。大森のとなりが蒲田で次は川崎市だからまさに東京の西のハズレだ。それでいて大森はある種のオシャレさんの町でもあった。昔から電車一本で銀座にも有楽町にも行くことができた。
 当時大森と並び称されたのが、私見だが渋谷だった。渋谷と言えば東京の中でもかなりいける町だった。今や大森の地盤沈下ははなはだしい。一つは渋谷のように私鉄が入っていないのも大きい。もっとも私鉄が入っていても大井町のようになかなかスムーズには発展しなかった町もある。それに比べると渋谷の発展ぶりは目覚ましい。子供の時、母方の祖父母の家は渋谷あった。いわゆるお屋敷ではなく二階建ての小さなしもた屋だつた。周りの家も似たようなこまごました家だった。祖母の家にはまだ祖父も健在で、祖母が一目惚れしたと言う整った美貌だった。ただ存在感から言えば祖母のほうが圧倒的だった。子どもガ11人いたと言うからなかは良かったに違いない。
 何と言っても渋谷の家は祖母の存在感で成り立っていたのだ。祖母はチャキチャキの江戸っ子、ちょっといなせで粋な風情。気性はさっぱりしていて、学はないが、頭のいい人だった。渋谷の家は祖母が中心で回っていた。身体も丈夫ではなく特別なにが優れているわけでもないのに一生離れず11人もの子を作ったのは何だったのだろうと、その端くれである孫は思ったりする。私が渋谷の家に行くとまず祖母が「かずえちやん、なにがいいかい。らーめんもあるよ。なんでもほしいものごちそうするからね。」割烹着のポケットに手をいれてきいてくれる。わたしか出前というものがあることを知ったのも、そういう店があるのを知ったのも祖母の家でのことだった。そこで食べた出前の味の美味しさは未だに忘れられない。
 もう一つ祖母の家の楽しみは、いくつも年のちがわない叔母がいたことだった。いちばん末っ子の叔母は私より一つ年上なだけだった。うちでは決して耳には出来ない大人の会話、内容もまったく大人の話も対等に聞ける楽しさがあった。その点祖母はおおらかであけっぴろげな性格だったのだ。あの大人数の一家を支えていたのはおおらかな祖母の存在だった。
 私にとって渋谷と言えば渋谷の祖母のことである。大勢で時には喧嘩ばかりしているように見える兄弟達の愛情や葛藤、一人っ子の私には新鮮で目の覚めるようなことだった。これが渋谷という場所だからこそ生き生きと日常に溶け込んでいたとも思える。もちろん今は渋谷の家の片鱗も残っていない。そこに集い、笑い泣きしていたことのなつかしさ。渋谷と大森と言う全く違った街も、都市の変遷の中でいつか消えて行くだろう。でも人々の思い出のなかで生き続けていく。

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