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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №13 [文芸美術の森]

過去の絵を焼却して渡欧  2                                 

                   早稲田大学名誉教授  川崎  浹

 前述した第三回「黒牛会」展とその批評は野十郎が出航してのちのことだったが、画家自身が自分で自分の進境への手応えを、会のメンバーたちの反応をとおしてもつかんでいたと思う。このあとは出来上がった軌道のうえを走るなり歩くなりすればよかった。そういう惰性から脱したいという気持ちも強かったと思われる。兄の援助や友人の激励といい、大連でのプロジェクトといい、本人の一念発起という決意があってこそ生じるものだ。
 野十郎は過去の自分ときっぱり縁を切るつもりで、兄嫁のキク子にこれまで丹念に描いてきた百枚ほどの絵の焼却を依頼した。
 野十郎が足かけ四年もヨーロッパに滞在したのは、それ相応の決意と準備をしていたこともあるが、なによりその地が気に入ったことの証拠である。洋画家はさておき研究者のなかには二、三ケ月でホームシックにかかり、早々と帰国する人が少なくない。だが野十郎はフランスに着いた当日から旺盛な好奇心をもって夜のバーに立ち寄っている。
 とはいえ近年あちこちで出ている、パリに滞在した日本人画家の交友史や記録を覗いても、当然ながら高島野十郎の名は見当たらない。かれは殆ど無名同然なので、執筆者がとりあげるに至らず、実際パリでもかれは画家とは接触せず、ひとりで行動したらしい。
 米国経由で帰朝した野十郎は兄宇朗を訪れ、これからは「ひとりよがりでなく、世にうけいれられる絵」を描かなければならないと感想をのべた。すると病床にあった姪の満兎(まと)がそれは妥協だと激しく反撃して、しばらく二人の話がつづいたという。
 画家が各地の美術館で膨大な数の、何世紀もの背景をもつ泰西名画に接して庄倒されたことは容易に察せられる。野十郎が「世にうけいれられる絵」と言ったとすれば、かれのような内省的な創作者が向かいがちな自らの殻に閉ざされることのない、開かれた創作でなければならない、そういうことを念頭においていたのだろう。かれの作品はすでに渡欧前から愛好者の需要を充たしていた、その分すでに開かれていたわけだが、画家は画家な
りに「ひとりよがりでない」絵を描かねばと思っていた。このエピソードからそうした画家の意図が伝わってくる。
 それは例えば生の横溢や鋭さをみなぎらせた、また逆にそれを強調するあまりバランスをくずしがちなねじれやよじれ、そうした過剰な形象やデューラー的な暗色からの脱皮であり、思想心情の面でも個から普遍へのひろがりをもつたと推定される。
 野十郎はヨーロッパで、自分は日本人の画家としての道を生きる以外にないという結論に達したと思う。現在のことは知らぬが、その頃は越境行為はありえてもコスモポリタンなどは存在しえなかった。岡本太郎はそれを意識せずパリで友人たちと行動していたが、大戦が始まったとたんにフランス国籍のかれらが祖国を守るために絵筆を銃にもちかえて前線に赴いたので、一人残された自分が異邦人であることに気づき憤然としたという。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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