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医史跡を巡る旅 №62 [雑木林の四季]

「西洋医学事始め・江戸の腑分」

            保健衛生監視員  小川 優

あちこち寄り道しましたが、いよいよ観臓のくだりに入ります。
解体新書といえば、杉田玄白が筆頭で名が挙がります。著者として名を連ねているのは、杉田玄白、中川淳庵、石川玄常そして桂川甫周の四人、そして名前は出ませんが実際に翻訳に加わった、むしろ主翻訳者の前野良沢がいます。それぞれの役割としては杉田玄白が「譯」、中川淳庵が「校」、石川玄常が「参」、桂川甫周は「閲」と記載されていますし、名前の順が年長順になっています。さらに元本の「Ontleedkundige Tafelen」は杉田玄白と前野良沢が持っていましたから、杉田玄白がこの翻訳事業の取り纏め役であったことは、間違いないでしょう。
杉田玄白のお墓は虎ノ門ヒルズの近く、緑の残る愛宕神社を背にした栄閑院にあります。

「杉田玄白墓」

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「杉田玄白墓」 ~東京都港区虎ノ門三丁目 栄閑院

享保18年(1733)小浜藩代々の医師の子として、江戸下屋敷に生まれる。医学を学んだのち小浜藩医となるが、宝暦7年(1757)町医者として、日本橋に開業する。当時日本橋長崎屋がカピタン参府の定宿となっており、親交のあった平賀源内とともに、長崎屋を訪れている。源内との交流はその後も続き、刃傷沙汰で源内が収監され、獄中死したあとも葬儀を執り行い、墓の隣に碑を建立している。明和8年、中川淳庵を介して医学書ターヘル・アナトミアを小浜藩費を用立ててもらって購入。詳細で緻密な記載に感嘆する。

我々が解体新書を記した杉田玄白らに抱いているイメージのいくつかは、事実と異なります。
「玄白らは自ら解剖をした」
「玄白たちは、自ら幕府(奉行所・老屋敷)に解剖を正式に願い出て、許可されて実施した」
「玄白らの観臓は、江戸で初めて行われた腑分けであった」

明和8年(1771)、玄白らの目の前で腑分けが始まります。
「蘭学事始」の記載によると、「さて、腑分のことは、えたの虎松といへるもの、このことに巧者のよしにて、かねて約し置きしよし」が、虎松が急に病気になったということで、彼の祖父が代わりに来ます。
宝暦4年(1754)の山脇東洋の時もそうですが、杉田玄白らも自ら執刀して解剖を行ったわけではなく、あくまで「観臓」、解剖を見学したのです。

「観臓記念碑」

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「観臓記念碑」 ~東京都荒川区南千住五丁目 南千住回向院

執刀したのは、百姓や町人、ましては武士とは異なる身分とされた人々でした。当時の医者は仏教的、儒学的に「ケガレ」観に囚われ、死者や罪人に直接触れることを好みませんでした。一方でこうした死や病に関わることを生業とした人々がおり、政策的に差別されていました。近代科学の黎明にも、日本における差別の明暗を見ることができます。

「南千住回向院」

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「南千住回向院」 ~東京都荒川区南千住五丁目 南千住回向院

次に山脇東洋の時のように京都所司代の正式・公式の許可、所謂官許を得てというよりは、かねがね奉行所や牢屋敷に観臓を希望する旨願い出ていたところ、たまたま処刑があり解剖するから見てもよし、というお達しがあった、というイメージのようです。奉行所のお達しに「手医師何某」のための腑分けがあるので見学をしてもよい、というくだりがあり、手医師とはお抱え医師のことですから、杉田玄白らのためにわざわざ行われたということではないのです。
そもそも刑場における解剖自体もこれが初めてということではなく、虎松の祖父曰く「若きより腑分けは度々手にかけ、数人を解きたり」、「その日より前迄の腑分けといへるは、えたに任せ、彼が某所をさして肺なりと教へ、これは肝なり、腎なりと切り分け示せりとなり。」(蘭学事始)
ここから玄白らの観臓以前にも、腑分けがたびたび行われていて、観臓した者がいることがうかがい知れます。ただ記録が公式に残されておらず、ただ観臓し、漢方人体図と実際が異なっていることに気が付いても、自分なりに納得(「みな千古の説と違ひしゆえ、毎度毎度疑惑して不振開けず。その度々異常と見えしものを写し置かれ、つらつら思へば華夷人物違いありや」蘭学事始)して終わっていたようです。

「延命地蔵(別名:首切地蔵)」

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「延命地蔵」 ~東京都荒川区南千住五丁目 延命寺

さて、当時の腑分けが行われた小塚原とはどんな場所だったのでしょう。罪を犯した者は捕らえられ、まず牢屋敷に収容されます。そして奉行所に引き出されて裁判を受け、刑が決まります。死刑となると牢屋敷に戻されて刑が執行されます。遺体は牢屋敷から運び出されて、小塚原に運ばれて浅く穴を掘り、土をかけて埋葬されます。原則遺体の下げ渡しは行われず、従って遺体を埋葬した墓は作られませんでした。江戸時代の罪人の墓は、せいぜい遺品や遺髪、それもない場合は供養のために建てられた墓になります。
本人の高尚な意思で行われる篤志解剖が一般になるのは明治になって暫くたってから、それまでは解剖といえば罪死人の遺体に頼るしかありませんでした。こうした状況から、小塚原ではたびたび腑分けが行われます。むしろ江戸では、小塚原以外で腑分けができなかったといってもよいかもしれません。玄白以降記録の残るところでは、文化12年(1815)の高須松斎によるもの、明治3年に行われた福井順道、大久保適斉とアメリカ人ヤンハンが行ったものがあります。

「松斎高須先生之碑」

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「松斎高須先生之碑」 ~東京都台東区谷中七丁目 谷中霊園

天明8年(1788)秋田出身。秋田久保田藩医に医学を学んだ後に江戸に出て、伊藤玄朴に師事する。長崎にも遊学し、西洋医学を学ぶ。文化12年(1815)、小塚原で刑死者の腑分けを行ったとされる。天保6年(1835)、秋田久保田藩医となる。明治2年に82歳で死去。

「解剖人墓」

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「解剖人墓」 ~東京都足立区日ノ出町 清亮寺

明治3年(1870)、まだ近代医学教育が始まったばかりの頃は、江戸時代と同じ形で解剖の授業が行われました。小塚原の刑場で処刑された後、ここで解剖された11人を供養しています。もともとは明治5年に建てられたものでしたが、傷みが激しかったため、昭和42年に以前からの墓の前側に、新しく碑が建てられました。

「解剖人墓(新)」

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「解剖人墓(新)」 ~東京都足立区日ノ出町 清亮寺

墓碑には11人の戒名、解剖日、俗名、年齢が刻まれ、執刀した医師の名前と人数、福井順道が一人、アメリカ人ヤンハンが一人、大久保適斉が9人と記されています。罪人の戒名のうち8人までに、「刃」の字が使われているのが印象的です。

こののち、解剖は医学校の解剖学教室で行われるようになります。
次回は、解体新書翻訳の苦労を辿ります。


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