So-net無料ブログ作成

いつか空が晴れる №68

        いつか空が晴れる
          -I remember・・・-
                                          澁澤京子

渋谷の街を歩いていると、その当時流行している歌謡曲が街のあちこちから流れてきたのは、私の覚えている限りピンクレディの「UFO」までだったような気がする。流行している歌謡曲を誰もが聴いて知っていたのも、その頃までだったような気もする。(私だけか?)

ウォークマンが出てきたあたりから次第に、音楽は時代の流行で誰でも知っているものというよりも、あくまで個人の趣味になっていった。
ディスコの熱狂も80年代の終わりとともに衰退して、今ではすっかり音楽は個人でバラバラに聴くものになってしまった。

井の頭線の暗いガード下をくぐって道玄坂の下に出ると、「大井」という安い生地屋があって、「大井」の前の横断歩道を渡った三角地帯が恋文横丁だった。
戦後、米兵の恋人を持った日本人女性のためのラブレターの代筆屋があったので、恋文横丁と呼ばれていたのだ。
この一帯は、敗戦直後は中国のマフィアと日本の暴力団の抗争があったという噂のあるような地域で、まるで「仁義なき戦い」の映画に出てくるような闇市の雰囲気がまだ残っていたし、道玄坂を上りきったところから神泉の駅にかけては、私が若いころは昼間でも怖いような場所だった。
昼間、ヤマハの前にそれらしき黒塗りのピカピカの車がズラッと何台も止まっているのを見たことがある。

恋文横丁には、衣料品店や一杯飲み屋、バーや小さな中華料理屋などがひしめきあっていて、東急本店に向かう通りの「玉久」や「くじら屋」は今でもある。
恋文横丁が撤去される前に、私ははじめて恋文横丁の入り組んだ迷路のような細い路地を歩き回った。いくつかの店はすでに閉店してガランとして人もまばらで、風の強い寒い日だったから、冬だったと思う。
友人のK君が恋文横丁の閉店バーゲンで、フーテンの寅さんが着るようなダボシャツを買ったと言って喜んでいたのを覚えている。

恋文横丁を過ぎると緑屋という小さなショッピングモールがあって、緑屋の先を曲がると「麗郷」という台湾料理屋があり、一度大きな火事になって建て直してからは煉瓦造りになった。建て直す前は素っ気ない構えのおいしい店で、いつも店の二階はがらんとして空いていた。

道玄坂から百軒店に上る坂道の右手には「でかっこ稲荷」という店が新しくできて、紺色の絣の着物に真っ赤な帯を締めたすきをかけた女の子たちが、キビキビと働いておむすびやお稲荷さんを店頭で売っていた。左には昔からの小さな洋品店があった。道玄坂には洋服の生地とか、衣料品を扱う店が多く、オーダースーツを作るような紳士服テーラーがヤマハの並びにもあり、その隣には古本屋があって、私はよくそこで本を買ったり売ったりした。あるとき本を売りに行って台帳にサインするとき、すぐ前に兄のサインがあったのが可笑しかった。

道玄坂から百軒店に上るすぐ右には鳥升というカウンターだけの狭い焼き鳥屋があって、私はイギリスに留学する前の友人Sと、二人ともなぜかセーラー服のまま入ったことがあった。
お酒の強いSが、人差し指をピンと立て「ビールを頂戴。」と注文しているのを見て、Sって大人っぽいと内心とても感心したのだ。

さらに上って玉川寿司の隣には、田吾作という入り口に大きな狸の置物が置いてある、二階建ての焼き鳥屋があり、「ヌード寄席 道頓堀劇場」を過ぎると、ひまわりという小さなレコード屋があった。笠井紀美子というジャズシンガーがヒット曲を飛ばした頃だったと思う、日本人離れした容姿の笠井紀美子がノーブラでシルクのシャツを着ている写真のジャケットが、店のあまり磨かれていない曇ったガラス越しに飾られていた。

急な坂をのぼりつめた左にはアンパンなどが並んでいるガラスケースを置いた小さな牛乳スタンドが角にあり、やがてレンガ造りの「ムルギー」というカレー屋が見えてくる、並びのガラス張りの角の店が「ブラックホーク」、その二階が「音楽館」、そしてそこを通り過ぎた左の一番奥に「SWING」というモダンジャズ喫茶があった。
「SWING」のドアを開けるとたちまち大音響のジャズの音が中から漏れてきて、店の奥の(NOW  PLAYING)の白い札の下にはブルーノートのレコードジャケットがうやうやしく掲げられている。
そして店の客の大半は黙って腕を組んだりして、哲学者のような面持ちで音を浴びるようにしてジャズを聴いていた。
店の暗い奥にはハンチングを被ったマスターが釣竿の手入れをしているシルエットが見え、日本人形のような美人のマスターのお嬢さんが珈琲を運んでくれた。
ドアを開けたまっすぐ奥のボックス席にはよくK君が坐っていて、黒いビニール張りの椅子はところどころビニールがはがれていて、中のスポンジが見えた。

最近は、ジャズは軽いBGMになって流されていることがあるけど(私はジャズがBGMになって流れている蕎麦屋に入ったことがある)、当時のジャズ喫茶では、ジャズは雰囲気づくりのBGMではなく真剣に聴くものであったし、K君のように目を瞑ったまま指でコードを押さえてみたり、難しい顔をして指でリズムとってみたり、ただ受け身で聴き流すのではなくて真剣に音楽に参加したり没頭して聴くものだったのだ。

また、ジャズ喫茶では友人と一緒にいても孤独な気分になる。ジャズが大音響でかかっているので、相手が何をしゃべっているのかところどころ聞き取れないからだ。友人の話をよく聞き取れないまま、私は相槌を打ったり感嘆したりしていたことがしばしばあった。

店内にはリー・モーガンのキャンディがかかっていた。
K君が自分でリクエストしたのだ。
「リー・モーガン聞かないで、チャールス・ミンガス聞けよ。」O君が言う。耳にかかるくらいの長髪で、面長の色白な顔立ちで長身のO君はなんとなく中国人風で、誰かがOの髭は雰囲気があっていいな、とほめた薄いナマズ髭を生やしていた。O君はふらっと立ち上がると店の奥にレコードのリクエストに行った。O君はいつも同じダンガリーシャツを着てGパンを履いていた。
「ミンガスの『直立猿人』。ミンガスはリー・モーガンよりはるか前にこういう演奏してたんだよ。ミンガス聴くと、リー・モーガンのようなエッチ(ホット)な演奏なんか聞けなくなるよ・・」O君はうれしそうに二カッと笑った。
O君は笑うと眉毛が下がって、人の好さそうな子供っぽい顔になる。普段はおとなしいけど、頑固で好き嫌いのはっきりとしているところもあった。

皆、家族もなしにたった一人で生きてきたような顔をして煙草を吸いながら、ジャズを聴いていた。その頃、私はなるべく汚く見えるようなジーンズがかっこいいと思っていて、古着屋で探してきた汚いジーパンをいつも履いていた。

「吞みに行こうか?」と誰ともなく言い出してSWINGを出る。みんな、浪人中というのに少しも勉強もしないでジャズばかり熱心に聴いていたのだ。ジャズの大音響から解放されると、すっかり暗くなった道玄坂には灯りがともり、立ち並ぶ居酒屋からは演歌や焼き鳥の匂いが流れてきた。

K君、N君、O君という浪人している友人たちがまるでジャズ評論家のように、熱心にジャズを論じ合っているのを、私は横でいつも大人しく聞いていた。私は今でもそうだけどジャズについてはそんなに詳しく知らなかったし、マニアックなジャズの知識と話にはとてもついていけず、何だか彼らがとても高尚な話をしているように思って聞いていたものだ・・・
三人とも自由な校風で有名な男子校にいたせいか、容易には他人とは妥協しない趣味や価値観を持つ個人主義であり、都会の子供にありがちだけど、早熟な子供がそのまま成長したようなおませな、アンバランスなところがあったと思う。

私は20歳になったばかりだった。そして、あの頃の渋谷の街にはいつも音楽が流れていた。

薄い髭を生やしていたO君はその後医学部に合格して医者になった。

それぞれ家庭を持って忙しかったある日、K君から電話がかかってきてO君の訃報を聞いた。O君は大学病院に勤務していて病に倒れたのだった。40代半ばだったと思う。
「葬式の時のOの写真がね、昔とまったく同じにOが笑っててさ・・・」そこまで伝えてから、電話の向こうでK君はしばらく沈黙した。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。