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梟翁夜話 №48 [雑木林の四季]

生涯現役のパラドクス

                翻訳家  島村泰治

拠出金額がそもそも違ふ北欧諸国ではないのだから、この国では年金で食はうといふ考えが甘いことを知らぬはずはないのだが、なにやら老後を心配する余り、それと知りながらしきりに不安を訴える輩が増へてゐる。確か老後の蓄へが二千万円ないと不味いといふ話が原点のやうで、悪いことに団塊世代の引退時期に重なってゐることが話をややこしくしてゐる。

だうやら政府もあれこれ試案めいたものをちらつかせて、巷の騒ぎを知らぬわけではないといふジェスチャを見せてゐる。この話、実は起こるべくして起きているわけで、年寄りは働けるうちは働け、年金を貰ふのはもっと後にしろ、といふ正論を論(あげつら)いかねて茶を濁してゐる実情が生々しく露呈されてゐるに過ぎない。

裏にあるのは紛れもなく「団塊のうねり」だ。このうねり、今にうねり始めたものではなく、育児から教育システム、入試の狭き門から就職難まで、この世代が世渡りをする過程で随所に社会的ストレスを発生させてきた。いはば必然的社会現象を波状的に惹起させてきたわけで、此処にきて老後の懸念云々もこのうねりなしに語れぬとしたものだ。

話が飛躍するが、いま私はクラウドソーシングトップのランサーズの音頭取りで、生涯現役というハシュタグのキャンペーンを立ち上げてゐる。年寄りよ、引退とは意気地がないぞよ、踏み留まってなお現役たれ、といふ働きかけだ。人手不足だからと安易に外人を入れるまへに年寄りの余力を生かさうじゃないかといふ正論だ。

正論には違いはないのだが、現役で働けと云われて年寄りが現役たちに伍して馬車馬のように働けるものでもない。働きはするが昔のようには行かない、となれば年寄りらしく働いて世間のお役に立たうじゃないか、といふのが常識的な落とし処だ。

さて、その年寄りらしくといふことだが、力瘤がもうないからほどほどにといふなら、手間賃は妥協しても体力並みの働きをすればいい。力瘤ではなく脳味噌を使ってといふなら、話はグッと変わってくる。年寄りには年の功といふものがある。これには「味わひ」というふりかけが振ってあるから手間賃はむしろ上がってくる筈だ。年寄りの手に掛かると味わひが増す。ならば年寄りに頼むに限る。この側面が実は生涯現役のパラドックスなのである。

一般論としては、引退したら手間賃は下がっても仕方がなからうと云ふ。それが、逆に上がって然るべきだと云ふパラドックスが成立するとすれば、これには条件がある。それは年寄りの年の功に確たる潜在価値がありやなしやと云ふことだ。馬齢を重ねての価値と云ふなら俗に言ふ経験値といふことだが、それがあってはじめてこのパラドッククスは成立する。

さて、ならばどうする。これには二つ策がある。一つは働く年寄りを使ひこなす側の打算、もう一つは生涯現役を唱へる年寄りの立ち位置だ。つまり、かう云ふことだ。使う側は仕事の遅速を問わず、専ら成果の資質を重点的に評価する姿勢を守り、年寄りは年齢故の配慮を期待せず成果如何の立ち位置を崩さないことだ。

平たく云へば、使う側は年寄りを甘やかすな、年寄りは年齢を言い訳にするなと云ふことだが、生涯現役を実現するにはやはり年寄り側の意識改革が鍵になる。まず年の功がなくては始まらない。シニアと奉られるには、相応の経験値が不可欠だ。さすがだと思わせる何かがなければ、取引は成立しない。

結論は自明である。生涯現役を実現するには引退、だれもが定年に至る前の十年間に、意識的にその何かを蓄積する努力をすることだ。老後の貯金を心配する暇があったら、その何かを身に付ける努力の結果こそが老後の命綱になる。生涯現役のパラドックスは、それなくして、哀れ、砂上の楼閣なのだ。

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