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対話随想余滴 №22 [核無き世界をめざして]

    余滴22 中山士朗かから千枝子さま

                  作家  中山士朗

 このたびも休筆してしまい、申し訳ありませんでした。私たちの往復書簡は平成12年から始まりましたが、その間、急病入院し、三度も関さんにご迷惑をかけてしまいました。
 四度目のこのたびは、上行結腸がんからの大量出血による貧血を生じたもので、検査を受けて点滴、輸血するという事態になったものでした。ご心配かけてもうしわけありませんでした。
 報告からがた、自分の病気のことから書き始めてしまいましたが、 関さんの前回からのお手紙を読みながら、大腿骨骨折の手術後のリハビリ生活がいかに苦痛を伴うものかを知りました。けれども、その苦痛を克服しながら、ご自分の生活を貫いておられる様子を拝見し、敬服しております。そして、その何分の一かの精神力が私にあればと思ったりしています。また、お手紙によると狩野さんも大腿骨骨折で目下入院加療中と聞きましたが、これは単なる偶然ではなく。被爆の影響によるものではないでしょうか。関さんは広島で被爆、狩野さんは長崎で被爆されております。関さんの姉上様がいつか、「七十年経った今も、仇をなす」と語っておられた言葉が実感として迫ってきます。私自身のがんについても、また、被爆直後に、私を捜し歩いた母と姉が後年になって、大腸がんに罹ったことを思えば、私が現在癌に侵されていることに、何ら不思議はありません。被爆直後、火傷の治療を受けた医師から、「被爆者の骨は脆くなっていますから、転ばないように気をつけてください」と言われたことが、今、あらためて思い出されます。
 先ごろ届いた、日本エッセイストクラブの会報を読んでいましたら、ある人の近況報告に、腰痛と肺炎にかかった報告の後で、
  老人は転ぶな、風邪ひくな
 と、のたもうておられましたが、まさにその通りだと痛感した次第です。
 雑談になってしまい、申し訳ありません。
 本論の返事に入りますが、まずもって、関さんの行動範囲の広さ、そして、私の知らない世界で活躍している人々との文化交流の様子が伝えられていて、感銘を覚えました。特にポーランドで、長崎原爆にちなむ多田富雄さん原作の新作能が公演され、その折に、ウイーン、パリ。ワルシャワで今の世界の人々に「平和」について訴えるというお話は、能について無知な私にも、感動を与えます。
 そして、お手紙の末尾に書かれている村上俊文さんのこと、食事会で「二年西組」の忘れられない二人のクラスメートの甥と姪の方に会われたというお話は、単なる縁というものを超えた、感動的な出会いを感じずにはいられませんでした。
 順番が後先になってしまいましたが、弁護士会館でのお話について書いてみたいと思っています。
この八月四日に弁護士会館で開催された。平岡敬・元広島市長にTBSの金平茂紀さんが聞く「ヒロシマがヒロシマでなくなる日」という対談の内容が紹介されていましたが、身近に、感じたあの時代の熱っぽい空気が伝わってくるのを覚えました。
 TBSの金平記者については、私たちの「対話随想」二〇一七年八月の「証言の夏、地獄で見た夏」(11)で、関さんが書いておられることを思い出しました。それには、次のように語っておられました。
 
 帰ってから、十九日、土曜日、TBSの報道特集で中国放送の秋信記者のことを取り上げていてびっくりしました。彼とは中山さんの番組「鶴」の取材のころ、初めてお会いしたのですが、その後、昭和天皇への原爆についての鋭い質問に感心していました。この番組では原爆による小頭児についての特集でしたが、この問題を最初に取り上げたのは、秋信さんだったのですね。驚きました。このことをしっかり取り上げ、この時期の原爆報道にされたTBSの金平記者に感動しました。

 とありました。
 この文章の中に出てくる「鶴」は、一九八五年に中国放送が、被爆四十周年報道特別番組として制作されたものでした。これは、広島一中遺族会、広島一中同窓会、広島大学医学部の協力を得て、『星は見ている』(広島一中遺族会編)のなかから、十六人の遺族を選び、日本各地を訪ねるという番組内容でした。広島一中の「追憶の碑」には、建物疎開作業、そのほか学校防衛の任に当たっていて被爆死した、一年二八七名、三年五五名。そのほか九名の名前が刻まれています。
 「鶴」の制作が企画されたころ、TBSには、早稲田大学文学部露文科で一緒だった萩元晴彦君がプロヂューサーとして在籍しており、私と秋信さんは連れだって挨拶に行ったことがあります。また、TBSでは、「鶴」の朗読を樫山文枝さんにお願いしていた関係もあって、録音室をお借りして、樫山さん、秋信さん、私の三人は採録のために長時間こもった思い出があります。このことは、私たちの「ヒロシマ往復書簡」(第ⅲ集)に詳しく書いていますが、秋信さんと一緒に出水市荒崎地区を訪れ、鶴がシベリアに帰って行く光景を撮影し、それを背景に樫山さんに朗読してもらったのです。

<タイトル前のプロローグから>
昭和二十年八月六日、広島市に原子爆弾が投下されて四十年の歳月が経った。
その日、私たちの前から不意に姿を消してしまった大勢の学友は、今どこにいるのだろうか。未だに子どもの死に場所も判明せず、遺骨の一片もない遺族は、今もあの日を生き続けているにちがいない。その当時、事実として伝えられ、伝えられた方も事実として受け止め、深くは確かめようとはしなかった。それが死者に対する礼儀のように思われた。
 しかし、四十年経った現在、その事実を深く確かめてゆくと、曖昧な部分が残る、
 その曖昧な部分を明確にすることが死者へのくようになるのではないだろうか。
                  (出水に向かう車中)

 鶴が舞う姿は美しい。しかし、その鳴き声は決して美しいものではなく、野性的な声の中に、一抹の哀切がこもっていた。あの日の死者たちは、忽然とこの地上から消えていった。
 儀式があり、人々が哀しむ中で別れを告げたのではなかった。醜く焼け爛れた手を虚空に差しのべ、水を求めながら、誰からも気づかれずに死んでいった幾千、幾万の執念の声を聞いたように思った。その声の中に、亡くなった同級生の声も混じっていた。
                  (大空に向かって鳴く鶴)

 引用が重複しましたが、関さんのお手紙を読んでいるうちに、「鶴」制作中に中国放送を訪れた際、秋信さんに紹介されて平岡さん(当時・専務)にお目にかかった日のことを思い出し、その頃の熱気のようなものに触れたかったのかもしれません。
 いみじくも、対談の内容が「ヒロシマがヒロシマでなくなる日」とあるのも、むべなるかなと思いました。平岡さんの<原爆を落とした米国への責任追及>、怒りを忘れるな、日本はアジアへの謝罪を忘れるな、アメリカの核の傘の下で核廃絶を言うのは偽善だ、和解のためには加害者の謝罪が必要、核廃絶し、貧困や差別のない世界を作ること>の論旨は素晴らしい内容だと思いました。

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