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じゃがいもころんだⅡ №17 [文芸美術の森]

音信不通

             エッセイスト  中村一枝

 定年退職後、千葉県に土地をかい、ご主人と二人で野菜を作り始めた従妹がいる。はじめは素人の生兵法で、いろいろの形の野菜が送られて来た。それはそれで楽しかったが、最近はすっかり手馴れてきて、スーパーで売っている野菜と見劣りがしない。彼女とは小さいときからよく知っているから、普段そんなに慌てることはない。その彼女の家が南房総市だと気が付いたのは、大規模停電が報道されて何日か経って、もしかしてと思ったのが始まりである。電話はつながらない。夫婦ともに70代だからまだ元気なはずである。犬を2匹飼っていて、私としては人間もだが、犬の知己である。とにかく連絡がつかないのだ。この時ばかりは大いに慌てた。
 どうにか人づての情報でなんとか無事を確認することができて、ほっと胸をなでおろしたが、連絡のつかない間は次から次に不安なことがおそってくる。家が浸水や倒壊などにあってないか、怪我をしていないか、ひょっとして事故にまきこまれたのではないか・・・・。便利な携帯に電話をかけて相手がすぐにでないと、こんなにも不安になるのかと思い知った。若い時は少しくらい連絡を取れなくてもへっちゃらだったのに。
 年をとってくると、この手のことがどんどん増えてくると初めて気が付いた。テレビをみていても、予想外のことが本当に多い。経験から割り出せないことがふえた。若い人の考え方や行動にはついていけない。でも、人間は自分が年寄りだというこのとを、誰しも認めたくない。そのほうが気が張って元気でいられるのだ。気を張って元気そうにして、少しでも若く見られたいと思う。その点、犬などは体や毛並みに老化の進んでいくのが目にみえてわかるから、隠しようもない。顎の白い毛を撫でてあんたも年取ったわねと言ってやったが別に気を悪くした様子もない。私だったら大向こうから、あんたも年とったわねと言われたら、あんまりいい気はしないだろうに。どんなおばあさんになっても生きることに張りを失ってはおしまいである。
 これからの身の振り方を時々考えるが生来楽天的なのでいつの間にか忘れている。今はただ同居する犬の一生を全うさせてやりたい。不自由でも自分でご飯を作りたい。背の届かなくなった食器棚や換気扇を斜めに見ながら食事時の楽しみだけは残したいと思うばかり。我が家の犬の少しも衰えない食欲を見ると、人生の楽しみは食欲にありと思うことだってある。ただこのところの災害の多さを見ると、人間の欲望の深さにあきれ果てた神のいかりのように思えてくる。驕りという言葉を人間はもっとかみしめるべきである。
 9月15日は母の命日である。老人の日なので忘れる事はないが、当日あいにく息子がかぜをひいてこられないので弟と父の墓のある生田の春秋苑へ行った。父の生前から文学碑がたつ場所である。夕方の5時を過ぎて薄い夕闇に包まれた春秋苑は人影もまばらで、ひっそりと静まり返っていた。父の墓石はとても小さく密やかに立つ姿がいかにも父の墓石という気がする。この小さな墓石を探して母があちこち懸命にさがしていたことをおもいだす。あんまりみかけない小さな石はわたしも気にいつている。墓地は静まり返って、ゴミ集めの車が通るだけ。私一人ではとても来られないが、なんともやさしい雰囲気がただようのが不思議だった。

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