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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №12 [文芸美術の森]

過去の絵を焼却して渡欧 1

                早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 抽象に比べると写実は一般にわかりやすいので、野十郎の愛好者は昔もいまも非専門家のなかに多いと思われる。渡欧費を捻出するために、「黒牛会」第三回展(昭和五年)の七ケ月前に大連市で個展を開けたのも、そうした愛好者の支援によるものだろう。「高島野十郎油絵個人展覧会」が大連の満鉄社員倶楽部と大通商工会調所で開かれている。
 私が注目したのは案内状のトップに推薦人として石田禮助以下八人が連名で記載されていることだ。石田禮助といえばのちに三井物産ニューヨーク支店長となり、戦後、下山国鉄総裁惨死事件後につよく乞われて、高齢をおそれず国鉄再建のための第五代国鉄総裁となる人物だが、大正十四年(一九二五)から昭和五年(一九三〇)までは三井物産の支店長として大連にいた。仮に石田自身の発案ではないにしろ、連名のなかに野十郎と縁のあ
る者や愛好者がいて、皆が実際に絵を見てきめたことだろう。日本から海をへだてた大陸に百点余の絵画を運搬するのは一個の事業といってよかった。三菱造船に勤める兄三郎も含めて、相当強力な支援者と組織がないと実行できない企画である。
 作家城山三郎の『粗にして野だが卑ではない石田檀禮の生涯』は石田のスケールの大きさをとりあげている。石田の鶴の一声が大きなポイントになったはずである。
 いわんやヨーロッパに行くとなれば、別の惑星を訪れて異星人となって戻るようなもの。連名の案内状には、だから「渡欧の途上に大連に立ち寄った」ことになっている。しかし正確にいえば個展は渡欧する半年ちかくも前のことで、画家はまだ旅券も申請していない。後押しする大企業にとって必要なのは画家の絵をより多く売ることだった。野十郎も渡欧費用の足しにしようと様子見していたのにちがいない。留学費を援助し、安い船便を世話してくれたのは兄の三郎だった。
 『満鉄日報』のインタビューで高島野十郎は敬愛する画家としてレオナルド・ダ・ヴィンチの名をあげているが、これは日本人の《モナ・リザ》信仰とは少しちがうようだ。ひとつはレオナルドが工夫考案の天才であったこと、つぎに私は《受胎告知》を見て感嘆したが、他の画家の天使たちの羽根があいまい模糊としているのに比して、レオナルドの天使の羽根にはリアリティがある。天使の身体を十分に宙に飛翔させるにたる揚力があるこ
とを見る者に納得させ、羽根と女体の融合部分が解剖学のように精密に措かれている、その真実性と幻想性の融合に野十郎は敬意を払ったのだろう。
 私たちはつい、なぜ野十郎は四十歳になるまで「本場」のヨーロッパに行こうとしなかったのかと思いがちだが、実家が資産家とはいえ、発言権をもつ父母とも亡くなり、本人は貧乏画家だった。むりをしてまで「外遊」する必要はないと考えていたふLもある。兄の宇朗が野十郎の報告を聞き「西洋かぶれで行くのではなかろうな」と不審がった。財政事情も手伝って、そういう雰囲気が野十郎にも周囲にもあった。
 その野十郎に「外遊」の刺激をあたえたのは、かれが参加した「黒牛会」のメンバーに留学経験者がいたことだろう。間部時雄や五味清書らが互いに行き先や見た絵、彫刻、建築などの印象、評価をたしかめあう。脇で聞くだけでも心がはずむ。「そりゃ、きみ、一度は行ってみるべきだよ」となる。本来、科学とは好奇心や探索心と表裏にあるので、科学者だった野十郎が自分をもう一度リフレッシュさせたい、自分の限界や可能性を知りた
いと思うのは当然だろう。
 前述した第三回「黒牛会」展とその批評は野十郎が出航してのちのことだったが、画家自身が自分で自分の進境への手応えを、会のメンバーたちの反応をとおしてもつかんでいたと思う。このあとは出来上がった軌道のうえを走るなり歩くなりすればよかった。そういう惰性から脱したいという気持ちも強かったと思われる。兄の援助や友人の激励といい、大連でのプロジェクトといい、本人の「念発起という決意があってこそ生じるものだ。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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