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検証 公団居住60年 №40 [雑木林の四季]

第3部 中曽根「民活」-地価バブルのなかの公団住宅

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 中曽根康弘は、鈴木善幸前内閣の行政管理庁長官として第2次臨時行政調査会(臨調)を設置し、田中角栄元首相に推されて1982年11月に総理大臣につくと、「戦後政治の総決算」をとなえ、臨調「行政改革」「増税なき財政再建」路線を進めた。83年7月には第2臨調を臨時行政改革推進審議会(行革審)に改組して、国鉄の分割・民営化、国鉄用地の売却処分を決め、「民間活力の活用」の名で住宅・都市整備公団や日本航空の民営化についても検討をはじめた。
 公団家賃の定期的値上げが財界主導の臨調答申に発していることはさきに述べた。中曽根政権となり、つぎに公団住宅居住者に襲ってきたのが「建て替え」の脅威であった。第3部では、中曽根「行革」政治がはじまり1990年代初めにはその行きづまりを見せるまでの10年、その間に公団住宅居住者が経験した苦難と闘いを中心に、住宅政策の変質過程をたどることにする。日本経済が「バブル」に狂った時期に重なり、その火に中曽根「民活」路線が油を注いだことは明白である。
 公団住宅について80年代半ばには、政治屋たちのこんな公言がまかり通っていた。
 田中角栄には首相当時の1973年5月に公営・公団などの住宅払い下げを金丸信建設大臣に指示した前歴がある。82年に臨調が公団業務の縮小、民営化をとなえると、84年9月にかれは田中派研修会で「公団住宅売却」論をぶっている。「国債残高が122兆円になったからといって心配することはない。電電公社の次は住都公団の資産を売却するよう提案したい。住宅公団もほぼ電電公社と同じく、簿価10兆円、実質価格は100兆円だから、2割を残し、他は比較的安く売っても、これだけで数十兆円の売値になる。(「NEXT」誌84年11月号)。
 民社党書記長の塚本三郎は、2か月後に党委員長となる85年2月6月の衆院予算委員会で中曽根首相をまえにこう発言する。「(赤字国債などの穴埋めに国鉄を売って、それでも)足りなければ住宅公団もついでにお売りになったらいかがでしょうか。民間住宅会社は邪魔になっておると言っておる。……。払い下げいただけたら、130兆から150兆には全部申し上げただけでなるじゃありませんか。税金なんか必要がない、減税できると私たちは踏んでおるのですよ」
 日本住宅公団が設立されて20年余は、ともかくも国民の住宅要求にこたえる実績を残しながら、高度経済成長を下支えする産業基盤の整備をになってきた。臨調、行革審がとなえた公団業務の縮小・民営化は、もっぱら公共的な賃貸住宅事業にむけられ、中曽根政権は公団住宅の行方を大きく変えることになる。
 中曽根首相は専売、電電公社につづいて国鉄を「行政改革の203高地」上位薔づけ、分割・民営化法を成立させた。そのねらいは、①国民の共有財塵を民間資本にゆずりわたし、基幹的な公共企業体を営利第一の経営にきりかえる、②まず国鉄の労働組合を分断・解体させ、総評を崩壊させることにあった。民営化に先だっては国鉄用地をはじめ国公有地の払い下げを進めて地価高騰をあおった。大手ディベロッパー資本は土地買い占め、土地投機に走った。
 国鉄用地のつぎに目をつけたのは公団住宅とその敷地である。国鉄の分割・民営化が本決まりになると同時に、住都公団も突如「建て替え」方針を打ちだした。業務の重点を住宅供給から都市整備に移していた住都公団にとって、中曽根「民活」の号令と地価バブルの火の手をまえに、団地の丸ごと「建て替え」着手にためらいはなく、居住者の生活や、やっと形成されてきたコミュニティなどは考慮の外だった。
 公団住宅建て替えは1986年にはじまった。名目は当初、敷地の高度利用による良質な住宅の「戸数増」であった。賃貸住宅を建て替え、高層化してその敷地に分譲住宅の建設もはかり、家賃の3倍以上ものつり上げにくわえ分譲の売り上げ収入をねらった。団地住民の運動によって一部自治体では跡地に公常住宅を併設させた。
 90年代半ばをすぎると、家賃も分譲価格も高く、従前居住者を追い出して建て替えた結果が未入居、空き家の増加となり、「戸数増」の名目は立たなくなる。建て替え後の住宅建設は「戻り入居」戸数に限り、重点を、高層化によって生じた「余剰地、整備敷地の売却」に移していった。「建て替え」の用語はやがて団地の「削減・売却」にかわっていく。現在では、建て替えはせず、住棟の一部除却または団地丸ごと譲渡による公団住宅の削減もおこなっている。公団住宅は家賃の市場化につづいて、公共資産そのものが民間営利の対象にされ、居住者は家賃支払いばかりか、終の棲家ときめている住居の存続にも不安を深めざるをえなくなる。
 わが国の住宅政策の柱は一貫して「民間自力建設と市場まかせ」「持ち家」推進主義であり、それは景気対策、経済政策の一環でしかなく、国民の住宅資産を豊かにして、居住を安定・向上させることを主たる目的とはしてこなかった。地価高騰をあおった中曽根「民活」の責任は重大である。住宅の価格は上がり、勤労者にとって持ち家取得は困難となり、持ち家志向層も借家層に追い込み、家賃も上昇して借家層の貧困に追い打ちをかけた。建設される住宅ストックは狭小、粗悪となり、遠隔の地に広がり、勤労者の通勤時間は長く、体力を消耗させる。かたや都心部の人口は減少して空洞化し、街の賑わいや伝統文化は失われていく。
 日本住宅公団の設立、公団住宅団地の出現によって、その地に街が開かれていくのを私たちは見てきたし、それに貢献した各団地住民、自治会の役割は大きいと自負している。公団住宅の「建て替え」事業がその居住者に何をもたらしたかは以下に述べるが、団地の外でも地域の様相、庶民の暮らしが大きく変えられていったはずである。
 中曽根「民活」政治の行きづまりはバブル経済の崩壊とともに明らかとなり、その禍害は大都市圏の住宅事情に顕著にみられた。第2次行革審も1990年4月の最終答申で認めざるをえなかった。

『検証 公団居住60年』 東信堂

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