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対話随想余滴 №21 [核無き世界をめざして]

余滴㉑ 関千枝子から中山士朗様

            エッセイスト  関 千枝子

 体調崩されて入院されていたとは、全く知りませんでした。退院されたそうですが、お電話のお声はお元気そうでしたが、その後体調いかがですか?とにかく気候がおかしく、暑く、時折豪雨、身体にいいわけありませんので、ご無理なさらないように。

 というわけで21は、本来、中山さんからの番ですが、一回休みということで、関の報告を続けます。

 八月四日から広島に入りました。これは前から予定していたことで、すでに二月に宿はとっているのですが、その後、大腿骨骨折があり、少し緊張しました。杖とサイドカートと、二つを使っての歩行、大分うまくなってきて心配しませんでしたが、ホテルが心配でした。つまり入浴がうまくできるかということです。もちろんバスタブに入っての入浴はできません。バスタブに入り横たわってしまうと出られなくなるので。だからシャワーで体を洗い流すしかないのですが、安物ホテルなのでバスタブの中に入らないとシャワーを使えません。うまく入れるかどうか。心配でした。
 でも、バスタブにうまく入れ、(私の足が以前より高く上がることができた、リハビリの成果が出ているわけです)問題はクリアしました。三泊四日の旅で着替えが三日分いります。去年までは、途中でホテルの洗濯機で洗っていたのですが、洗濯物を洗濯機から出す時が大変で、低い位置の物をつかみだす道具(アイアンハンド)がいるのですが、これを持っていくには少し大きすぎる。やむなく、軽いリュックを買いました。また、靴下をはくのが大変で、これも道具がいるのです。元気ならいらないものがいり、やれやれですが、まあ何とか自分で持てる量に収まりました。
 こんな格好で四日の朝早く新幹線で広島着。まず、弁護士会館に向かいます。ここで、平岡敬・元広島市長にTBSの金平茂紀さんが聞く「ヒロシマがヒロシマでなくなる日」という対談を聞きに行く、これが今回の広島旅行の最初です。
 二時間余りのこの会をすべて書くというわけにもいきませんが、内容の濃い会でした。金平さんは「これは僕の取材、それをオープンにする」ということで、徹底的に聞き手に徹しておられました。私も知らないことばかりで、平岡さんが小学生の時、ソウル(当時の京城)におられ、京城中学に学んだこと、京城帝大予科の時、学徒動員され、敗戦を迎える。京城中学のころは学校に朝鮮人はおらず、ソウルにおりながら朝鮮人の友はなく、大学予科の時朝鮮人の友と知り合った。敗戦後、旧制広島高校に入り早稲田大学へ。卒業して中国新聞社記者になった。
 中国新聞時代、在韓ヒバクシャに光を当てた記事を書いたのは有名ですが、「朝鮮への郷愁もあり傲慢な日本人への怒りもあった。戦前の創氏改名、神社参拝の強制など朝鮮人を日本人にしてやる」と言った思い上がり。慰安婦、徴用工、ヒバクシャ問題にしても日本人の朝鮮人への差別感が根強くあり、村山談話、河野談話などで一応謝ったが、安倍首相は認めていない。
 唯一の被爆国など言いながら韓国人被爆者問題に知らん顔をしているのはおかしいと、中国新聞、中国放送の四人(平岡さんや秋信さんなど)が、社の仕事ではなく、行なった。韓国へ行く経費など自弁だった。経費自弁に驚く聴衆に、「社の仕事でないからできたのですよ」と言われました。
 ヒバクシャ団体も原水協も当時は韓国人被爆者問題には関心が薄く、「森滝一郎さんだけがカンパをくださった。確か五千円だったと思う」。
 韓国も難しい時代で、政府は反共、韓国人の原爆観は、「日本に原爆が落とされ、戦争が終わってよかった、だった」。それが、「かわってきたのです!」。
 昭和天皇の記者会見での秋信さんの質問のことは、金平さんも関心強く、裏話を大分披露されました。大体あの頃(一九七五年頃)、天皇の記者会見などなかった。それがアメリカの記者がやってしまったことから、日本人記者もということになった。たまたま地方記者として秋信さんが抽選に当たり出られることになった。その会見で戦争責任をきかれ、天皇が「文学方面は弱く、そんな言葉のアヤはよくわからん」という答弁が出ました。秋信記者がヒロシマの記者として千載一遇の機会と原爆をどう受け止めるか聞いたところ、「遺憾だが、戦争中だから仕方がない」と答えた。原爆に対する記者の質問は、歴史的にあれだけ。秋信さんは質問させてくれた日本記者クラブに感謝していると言ったそうです。
 秋信さんは真摯な記者で営業に回されてからも胎内被曝・原爆小頭児問題などに自腹を切って取り組みました。
 平岡さんは「私たちは課外活動と言っていた。あの頃は、全国紙の記者たちと一緒に勉強会もよくしたものですよ」と言っておられました、
 平岡さんは中国放送の社長をし、市長になるのですが、最近の情勢について「アジアへの謝罪がない」ことを言っておられました。
 結局、平岡さんの一番言いたいことは、①原爆を落とした米国のへの責任追及、怒りを忘れるな。同時に、日本はアジアへの謝罪をを忘れるな。アメリカの核の傘の下で核廃絶を言うのは偽善だ。
②和解のためには加害者の謝罪が必要(つまり米国の原爆投下への謝罪、同時に日本のアジアへの謝罪)③核廃絶し、貧困や差別のない世界をつくること。
ということになるでしょうか。対談が終わっても皆さんなかなか帰らずサインを求める人の列が続いたのですが、私はかいくぐって平岡さんの所に行き、ごあいさつし、「怒りを忘れず、命ある限り中山さんとの往復書簡を書き続けます」と申し上げました。
 この話だけで長くなりました。この日は荷物をホテルに預け、YWに行きました。弁護士会館からホテルまで、なかなかタクシーは通らず、スマホを持っている人に頼み、タクシーをよんでもらったのですが、これがなかなか来ず、暑いし、立っているのが辛く、苦しかったです。今回の旅で身体的に苦しいと思ったのはこの時だけで、後は皆様の協力でラクさせt6得頂きました。
 ホテルに荷物を置き、YWへ。YWはここ十数年夕張との交流を続け中学生二人と先生一人を広島に招いていますが、三、四年前から資金が尽きて招けなくなってしまいました、しかし、夕張の方が広島に自費で参加するようになりました。そして広島YWCAもできるだけの接待をやっています。この日も夕張の方に手作りの夕食をごちそうし、ヒバクシャの体験談もありました。私も一緒に参加、とても勉強になりました。
 五日朝はフィールドワーク、YWCAの主催になってから六回目になります。
 去年と同じコースですが、時間の制限もあり、最初の話でできるだけ、建物疎開作業で若い少年少女たちが死んだ(重い火傷を負った)ことを説明するのですが、若い方たちは建物疎開と言ってもぴんと来ないのが今。なかなか骨が折れます。慰霊碑のところで説明するのですが、これをできるだけ簡単にしました。昨年までとかえたことは、私たちの学校の慰霊碑の説明を加えたことです、この慰霊碑は、町内会の敷地に作られたもので、作ることができたのも維持も町内会のおかげで成り立っています。町内会に直接関係ない第二県女と山中高女の碑が町内会の手で守られています。広島の慰霊碑は多いと思いますが、こんな慰霊碑はほかにはありません。大勢の犠牲者を出した雑魚場地区(今は国泰寺町)の町の人々の「心」を語りました。
 終わってからYWの難波さんや関係者の方々と食事をしました。フィールドワークの責任者の難波さんは今年から広島YWの会長になられたそうで、忙しく、それにご自分も足が悪いのに、本当に面倒をかけました。この昼食で、前にお話したフランス在住の松島かず子さんとご一緒できたのも幸いでした。松島さんは、昨年の取材のドキュメンタリーはまだ完成しないのですが、ちょうどいま鳥取のご実家に帰っておられます。上の娘が9歳になって広島を見せておきたいが…などいろいろ言っておられましたが、結局二人の娘さんをお母さまと夫に預け、広島に来てくださいました。彼女も元気でうれしかったです。
 六日、七四回目の原爆忌、私は私の学校の慰霊碑に近い(歩いて行ける)ので、宿は東横インに決めてあるのですが、毎年行きなれた慰霊碑なのに、一つ道を間違えてしまいました(町自体がどんどん変わっているせいもありますが)。高齢化現象かと冷や汗をかきました。
 慰霊祭には毎年来られる方が減っています。皆様お年なので心配なのですが…。でも、福山から平賀(水木)先生が元気な顔を見せられたのはうれしかったです。この方は戦前山中高女の先生、戦後第二県女の先生になられた方で、二つの慰霊碑の両方の先生をされた方などこの方しかおられません。すべての先生たちが鬼籍に入られた今、ただ一人の生き残り。その元気なお声! 八十代と言っても信じる方がいるくらい。でも先生九十八歳ですって!私もがんばらなきゃあ。
 慰霊祭に来てくれた堀池美帆さんと平和公園方面に向かいました。堀池さんは対話随想でも紹介しましたが、私の若い友人です。高校一年の時広島に来た彼女と知り合い、若い彼女が原爆のことに関心が深いのに驚き、友達になりました。彼女はその後も毎年広島に来ましたが、東日本大震災があるとボランティアで現地に行ったり、とにかく社会問題に熱心というか、近頃珍しい若者です。それが大学に入るとたまたま能のクラブに入ったのですが、能に夢中になりました。.原爆関係で彼女と知り合った人で、能などに詳しい人はいません。私は父が能好きだったため、子どもの時からこの世界のことに詳しく、一応の知識もあるものですから、彼女の能の修業にも付き合ってきました。とにかく彼女、入れ込むたちというか、関心を持つと、そのことに深く入ってゆく、一過性の趣味で終わらない人のようです、彼女も今年三月大学を卒業、ドキュメンタリー制作のプロダクションに勤めているので、今年は広島にも来れないだろうと思ったのですが、休暇をとって来てくれたのです。
彼女の話によると九月にポーランドで長崎原爆にちなむ多田富雄さん原作の新作能の公演があり、彼女はすでにその切符まで買っているのです。そしてその上演が観世流銕仙会の仕事で(彼女も大学で、観世会です)、その主演をなさる清水寛二さんが今広島に来ているのでぜひ会ってほしいというのです。
 どうもこれは彼女の方では別の目論見があったらしく、彼女は多田富雄さんのこともあまり知らなかったようですが、私は、こんなポーランド公演のことなど全く知らなかったので、(マスコミでな全く報道されていない)とても面白く話を伺いました。
 この公演はポーランドだけでなく、ウィーン、パリ、ワルシャワでやるのだそうです。講演は多田富雄さんの新作能「長崎の聖母」とオーストリアの人の作の「ヤコブの井戸」(これは新約聖書のヨハネの福音書からの話をもとにしています)。両方ともシテ、演出は清水さん、長年にわたり、欧州の人びととやりとりし、内容を練って来たもののようです。能というもの、囃子も、地謡もいり、かなりの人数が必要です。面も新たに作られたようで、お金も大変だと思います。多田さんは、原爆や慰安婦など多方面の現代の社会問題を能にされた方、私も台本を読んだことはありますが、本物を見たことはありません。しかし、この二つの能が、今の世界の人々に「平和」について深く訴えるであろうことは間違いありません、
 堀池さんがワルシャワの切符をすでに買っているのも驚きで、彼女が帰ってからの土産話も楽しみです。清水さんのような方の存在にも驚きました。大学の講師もされているようですが、プロの能楽師でもあるのです。
この日聞いたお話、まだまだ書きたいことありますが、もう行数一杯で、また今度にします。
 七日、朝、昨年も話をした(対話随想の最後から二つ目の章で書いています)村上俊文さんの案内で、リニューアルなった資料館本館を見学しました、村上さんのこと昨年はよくわからなかったのですが、資料館のボランティア(案内人)でもあるのですね、本館は広いし、途中で座る所もないからと、車いすに乗せてもらい、村上さんに押してもらいました。村上さんは車椅子を押すのもうまいそうです! 本館は以前に比べ実際の遺品が増えたり、ヒバクシャの絵を多用したり、わかりやすくなったと思います。蝋人形がなくなったことがよく言われますが、私たちが見たらあの人形ではきれいごととしか思えず、かえって良かったと思います。どんな展示をしてもあの地獄の模様は示せないのですが、苦心はされていると思います。足りないところは核兵器廃絶の闘いの歴史だろうと思いますが、これは行政の仕事としては無理でしょうね。
 これを見て後、皆さんと一緒に食事をしたのですが、二年西組のクラスメートの甥と姪の方がおられるのにびっくり。この二人と初めて会う方ですが、忘れられない級友の身内です。そしてこの二人が互いに知っておられるのに驚きました。
 会には五、六十人みえたと思いますが、村上さんの問題提起に従い、ヒバクシャの貧困の問題や、子どもが戦争のために闘わされたことなどについて語りました。最後は、ヒバクシャにもいろいろな考えの方がおられるが、あの爆弾はもうごめんだ、人類と共存できない、ということだけはみな一致している。あの爆弾をなくすには核兵器廃絶条約しかない。その会議にも参加せず、署名もしない我が政府を許せないと申しました。
 この日このまま、駅に直行帰京しました。まだ書くことあるのですが、字数多すぎるようです。次回に回します。


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