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渾斎随筆 №40 [文芸美術の森]

 友人吉野秀雄 1

                歌人  会津八一

 われわれの「夕刊ニイガタ」の俳句選者、飯田蛇笏さんは、かくれもない名家だから、何も私から吹聴をする必要はない。ただ短歌の吉野秀雄さんのことを少し御紹介しておきたい。吉野さんは、最初から、どこの短歌合にも籍がなく、どこの雑誌にも歌を出さず、ただ時々私にだけ歌を見せて来た人で、それが、もう二十何年かになる。その間にあの大部な「新萬葉集」といふものが出て、およそ日本中の歌よみといふ顔をした人の歌は、みなそこに出てゐるのに、吉野さんは出てゐない。つむじ曲りと人からいはれ、歌詠みの仲間にはひるのをいつも御ことわりしてゐる私の歌まで出てゐるのに、吉野さんばかり出てゐないから、ある時聞いて見たら、ああいふ種類のものに、先生は決して御出しにならぬと信じ切ってゐましたので、自分もさし控へることにしましたのに、出来上って見れば、先生のものが出てゐるので、ほんとに残念なことを致しましたと、感慨探げであった。つまり吉野さんは、日本中の歌詠みの歌を満載して賑はってゐる大選集を尻目にかけて、私と二人で超然として別にわれわれの歌を詠んで行くつもりであったらしい。だから、まじめな吉野さんから見たなら、私が出し抜いたやうなものであらう。
 結果からいふと、そんなことになるが、私とても、なまやさしくあの歌を出したわけでない。あの當時、どうしたことか、最初私のところへも、ただの應募者へ行くのと同じ勧誘状が来たけれども、私の歌は現代の大家といふ人たちから、選んで書物に入れて貰ふ必要はないから、せっかくながら御ことわりすると、一枚のハガキを送ると、これは全く事務上の手ちがひであったとかで、あちらから三度も四度も人が来て、くり返しくり返し世説明をされ、もちろん應募でなく、特に御助けを願ふのだといふことにまでなったので、とうとう根まけしてしまった。しかし、その時に、これは自分で選んだそのままで、誰の手も解れてはゐないことを、書物の何所かに明記して貰ふことを條件にした。かうして渡した私の三十首が、「シ」の部へ、秋艸道人として、第四巻へ出たのである。こんなにぶりぶりした、気むづかしい私の出底であって見れば、何も吉野さんを出しぬいたとも云はれぬであらう。
 この吉野さんを、私は初めは知らなかった。あとで聞けば、もと慶應の出身で、あちらでは理財を學び、國文學は全く獨學であったといふことであるが、私が大正十三年十二月に、最初の歌集「南京新唱」を出した時に、初めてこの人から手紙を貰った。その頃は、私の歌について世間では目にとめてくれる人もなく、発行所から一餞の印税も貰ふことが出来ないほどであったのに、吉野さんは、集中の歌はどれもこれも、みんな心から愛誦してゐるけれども、中に.二首だけ意味のわからないのがあると、「西大寺の邪鬼」と「三輪山の石佛」の歌をたづねて来たのであった。知己の無い世の中に、地獄で遇った佛のやうなこの手紙は、ありがたいものに相違ないのに、私の返事は冷然として不親切を極め、わが輩の歌は、萬巻の書を讀まず千里の遺を行かざるものに、わかるわけがない、わからぬものは勉強すべし、とこんな風に、にべもないものであった。
 これはもう二十何年も前のことである。私は若い時から、こんな調子で、今日まで世の中を押し切って来たもので、その間に、たまたま近附いて来るものがあつても、振り向いて見もしない手きびしさに、みんな尻込みをして、いつまでもついて来るものは一人もなかったが、吉野さんだけは、自分の方でいつしか私の弟子と固くきめてしまって、久しい御勉強であった。御勉強といっても、その二十何年かの間に、私は一度も朱筆を取って添削も批評もしたことがない。のみならず、いつか、つくづくと吉野さんの述懐を聞いて、さすがの私も心中でほんとに恥づかしかったのは、ある時などは、恭しく上等の列紙に、謹厚ないつもの書體で清書して持って来て差出された詠草を、ろくろく目も通さずに、膝もとの畳にこぼれた番茶を押し拭ってそのままぽんと紙屑籠の中へ投げ込んでしまったこともあるといふ。(『夕刊ニイガタ』昭和二十二年三月五日)


『会津八一全集』 中央公論社


                 

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