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医史跡を巡る旅 №60 [雑木林の四季]

「西洋医学事始め・蘭学事始」

            保険衛星監視員  緒川 優

宝暦四年(1754年)の山脇東洋の観臓から17年たった明和8年(1771年)、江戸でも刑場古塚原で、医学研究のための腑分けが行われます。立ち会ったのは杉田玄白、前野良沢、中川淳庵ら。

「観臓記念碑」

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「観臓記念碑」 ~東京都荒川区南千住五丁目 南千住回向院

彼らは事前にドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスの記した解剖学書のオランダ語訳版「ターヘル・アナトミア」を見ていました。実際に体内の様子を見て、その解剖書の記載の正確さに驚きます。その驚きは、解剖学書の和訳に取り組み、「解体新書」を生む原動力となります。
それでは、彼らを動かす原動力になったともいえる「ターヘル・アナトミア」は、どうやって玄白らの手に渡ったのでしょう。今回は江戸における蘭学興隆の芽生えについて、辿ってみたいと思います。

キリスト教禁教の副産物として、海外との人と物の交流が制限されて以来、外国からの情報はごく限られたルートに限られました。ヨーロッパ諸国の中で唯一交流が認められたオランダも、長崎の出島の商館を通じてのみとなり、布教のおそれがある書物の持ち込みはできなくなります。
鎖国後徳川吉宗によって洋書の禁が緩められ、幕府の役人である青木昆陽と、御目見医師であった野呂元丈にオランダ語習得が命じられます。

「甘藷先生之墓」

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「甘藷先生之墓」~東京都目黒区下目黒三丁目 瀧泉寺(目黒不動尊)墓地

青木昆陽
通称は文蔵。元禄11年(1698年)、日本橋の魚屋に生まれる(諸説あり)が、儒学を学び、南町奉行である大岡忠相(名奉行として知られる大岡越前守)に取り立てられ、幕府に仕える。折から享保の大飢饉が起こり、救荒対策としてのサツマイモ栽培に取り組み、「蕃薯考」を享保20年(1735年)にまとめる。この功で幕臣となる。元文5年(1740年)御書物御用達となり、将軍吉宗の命により蘭語習得に努め、「和蘭文訳」「和蘭文字略考」などを記す。明和4年(1767年)に書物奉行を命じられるが、明和6年(1769年)72歳で没する。

少々脱線しますが、青木昆陽の大きな業績として、蘭学の先駆者であるとともにサツマイモ栽培の奨励と普及に努めたということがあげられます。ですからついたあだ名が甘藷先生。

「甘藷試作跡 碑」

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「甘藷試作跡 碑」~東京都文京区白山三丁目 小石川植物園内

それまではサツマイモ、薩摩芋はその名のとおり鹿児島の特産でした。栄養分が高くて、主食代用としても優れ、荒地でも育てやすい性質に注目し、救荒作物として目を付けたのが青木昆陽。享保20年(1735年)、昆陽が実際にサツマイモを育てたのが、幕府直轄の小石川御薬園。大正10年にその功績をたたえて石碑が建てられました。

「青木昆陽甘藷試作地 碑」

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「青木昆陽甘藷試作地 碑」~千葉市花見川区幕張町 京成幕張駅近く

同時期に下総馬加村、現千葉市幕張でも試作を行っています。こちらにも功績をたたえる石碑があります。

「昆陽神社」

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「昆陽神社」~千葉市花見川区幕張町 京成幕張駅近く

幕張には顕彰碑だけでなく、昆陽を芋神様として祀る昆陽神社があります。青木昆陽甘藷試作地碑と道を挟んで向かい、秋葉神社の境内です。京成線の踏切解消工事のため以前からあった社殿は取り壊されましたが、工事後に再建されました。

青木昆陽の晩年に師事したのが、前野良沢です。

「前野良沢墓」

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「前野良沢墓」~東京都杉並区梅里一丁目 慶安寺墓地

前野良沢の略歴については、29回「西洋医学事始め・大分県中津市前篇」でご紹介しました。「宝暦末、明の初年」(蘭学事始より。1764~5年)頃、青木昆陽に師事して蘭学を学びますが、明和6年(1769年)に昆陽が死去、翌年にかけて藩主の参勤交代について中津へ帰り、長崎に留学します。この時に「ターヘル・アナトミア」を入手したとされます。

江戸時代、唯一日本に入国、滞在を許されていた西洋人がオランダ人、それも長崎の出島の中だけでした。ただし公式かつ定期的に出島を出る機会が、なかったわけではありません。それがオランダ商館長(カピタン)江戸参府です。商館長がはるばる長崎から江戸に赴いて、将軍に拝謁し、通商を認めてもらっている御礼として海外の織物や葡萄酒などを献上する儀式で、原則年1回執り行われました。その道のり、そして江戸で滞在することのできる宿は予め決められており、江戸では、日本橋本石町にあった幕府御用達薬種問屋の長崎屋が、定宿とされました。

「長崎屋跡」

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「長崎屋跡」 ~東京都中央区日本橋室町四丁目 JR新日本橋駅4番出口

カピタン参府には商館長だけでなく、商館付医官も同行しました。そのため海外事情を知りたい幕臣や大名のみならず、進んだ西洋科学の知識を求めて天文方の役人や奥医師、本草学者などが長崎屋に押し寄せ、競って面会を求めました。長崎屋に滞在したオランダ関係者で、名がよく知られているところでは、ズーフ辞書をまとめた商館長のドゥーフ、日本に西洋医学をもたらした医官のツンベルク、シーボルト、ケンペルなどがあげられます。またオランダ商館付きの通詞(通訳)も付き添っているため、オランダ語を学ぶまたとない機会であったと言えます。
鎖国中の日本にとって、長崎屋は出島以外の数少ない世界に開いた窓であったと言えます。

またまた少し脱線して、雑知識を。オランダ商館は大使館や領事館とは異なり、国家が設置する外交のための公館ではありません。さらに運営もオランダ政府ではなく、東インド会社です。また母国オランダ、当時のネーデルランド連邦共和国も1793年にナポレオン麾下のフランス軍に占領されて国家としては消滅。ナポレオン失脚後の1815年にネーデルランド王国として建国されるまでは、国体として存在しなかったにもかかわらず、当時の商館長ドゥーフは旧オランダ国旗を掲揚し続けました。商館は世界中でも数少ない、オランダ国旗が掲げられ続けた場所であったと言われます。また商館員もオランダ人に限らず、ツンベルクはスウェーデン人、シーボルト、ケンペルはドイツ人でした。

こうして芽生えた蘭学の芽ですが、いまだオランダ語を解するのは数少ない通詞だけであり、辞書もなく、医学用語など専門的な単語に至っては、その意味の見当もつかない状態でした。このような中で、前野良沢らは「ターヘル・アナトミア」の翻訳に取り組むこととなります。


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