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雑記帳2019-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-9-1
◆箱根石仏群と函南の仏像に出会う旅

箱根は時代によって位置づけが異なります。
古くから山岳信仰の地であったところに、万巻上人が757年に神社を創建しました。
平安時代は箱根伊豆ラインは当時の蝦夷の地。これより東は蝦夷の住むおそろしいい土地でした。箱根はその侵入を防いでくれる地と考えられました。当時、都の罪人の遠流の地は伊豆だったのです。

鎌倉時代には、頼朝が信仰したことから、武家の厚い崇敬の地となりました。
北条、足利、戦国大名、秀吉から家康まで、武家と箱根神社とのつながりはつづきます。
箱根道が整備された江戸時代は、庶民の信仰の聖地となりました。箱根権現は縁結びにもご利益があるとて、駒ケ岳山頂に九頭竜神社を箱根神社本殿の境内に里山神社として移したりもしました。

今回はその箱根古道を歩いて石仏群に出会う旅です。

箱根新道を行くバスはなんども箱根古道をまたぎます。
江戸時代に整備された有名な石畳は相当の難所だったらしく、幕末に勘定奉行や軍艦奉行を務めた川路聖謨は、伊豆の軍艦奉行時代、箱根を3度往復していますが、日記によると、これで地獄もこわくないみたいなことを書いているそうです。雨がふるとぬかるんで通れなくなる為に石畳を敷いた道はかえって歩きにくかったのでした。

今は箱根と言えばだれでも立ち寄る芦ノ湖は、箱根の中では一番開発の遅れた土地でした。温泉もなく、芦ノ湖に関所がおかれたとき、ここはまだ未開でした。そこで、幕府は、三島、小田原から各200世帯を移住させ、集落をつくったのです。住民は税金を免除されました。

いよいよ、足の湯のバス停から箱根古道(これも鎌倉古道)に分け入って、元箱根石仏群に会いに行きます。都会では聞けないハルゼミの声がうるさいほどでした。 

箱根古道3 のコピー.jpg
箱根古道側溝 のコピー.jpg
雨が降ればぬかるんで通れなくなるため、当時の人が掘った側溝の痕
                               
元箱根石仏・石塔群の道で、まず出会うのは、曽我兄弟と虎御前の墓です。
兄弟は箱根神社を味方につけて仇討に成功し、死罪にはなりましたが、箱根では墓は手厚く守られたようです。虎御前は大磯の遊女、仇討の為妻帯できなかった曽我兄弟を支えました。

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曽我兄弟の墓 右が虎御前の墓

次に出会う石仏群は巨大な2つの岩に刻まれた摩崖仏です。それぞれに、3体と23体 が刻まれた、重要文化財の二十五菩薩です。
二子山の溶岩である安山岩は固く細工がむつかしい。これを掘りぬいた摩崖仏はプロの石工の仕事だったとみられます。

石仏群のあるあたりは中世の箱根越えルートとして利用された湯坂道が通っています。
各所に噴煙の立ち上がる風景は当時の人にはさながら地獄に映ったはず。ときはまさに、地獄信仰が大流行。地獄にに落ちた人々を救ってくれるのは地蔵菩薩と信じられていました。石仏群は鎌倉時代後期に集中して作られ、その多くは地蔵菩薩です。地獄と恐れられたこの地も、地蔵信仰の霊地となったのです。

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二十五菩薩の摩崖仏の一部

石仏や石塔にはこれらの造立にたずさわった人々の名や由来がきざまれています。
「多田満仲の墓」と呼ばれる宝篋(ほうきょう)印塔には石工の棟梁の名や造立の発願者の名が見られます。篋は箱、お経を入れる箱のことです。

因みに多田満中は清和天皇の子孫です。天皇家は日本で唯一名字を持たない家系ですが、天皇に即位出来なかった多くの子や孫は名字を貰って下野しました。
清和天皇の子孫はは源(みなもと)姓、桓武天皇の子孫はは平(「たいら)」姓を名乗ったことは広くしられています。平は後、藤原や大伴を出しました。
武蔵頭領も務めたことのある源満中は、摂津の国多田の庄に赴任したことから多田を名のり、子孫は武田、南部、京極、足利など、多くの武将を出しました。徳川もその一つです。

多田満仲の墓 のコピー.jpg
多田満中満の墓

道筋には八百比丘尼の墓もありました。
禁じられた人魚を食べたために老いた命を800年もながらえることになった八百比丘尼の伝説は日本各地に見られ、東京は青梅の塩船観音にもありますね。

八百比丘尼の墓 のコピー.jpg
八百比丘尼の墓

最後にたどりついたのが重要文化財の巨大な六道地蔵です。3.5m、光背も入れると4mという、関東最大の摩崖仏です。御影石よりも固い安山岩にこれほどの地蔵を彫るとは、当時、いかに地蔵信仰が強かったかを思わせます。今は人っ子ひとり見当たりません。

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この奥に地蔵仏がある
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安山岩に掘られた巨大な六道地蔵

精進池のそばには「石仏と歴史館」が建っていますが、こちらも訪れる人はまばらでした。

お昼は芦ノ湖畔で箱根御膳を。

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名物のそばとニジマスのついた箱根御膳

窓外の湖の対岸に見えるのが一の鳥居。鳥居の足元にも多くの石仏がありました。山から下りてきた旅人が鳥居にたどり着いてほっとした場所でした。

箱根の一番人気はなんといっても芦ノ湖の水面に浮かぶ鳥居でしょう。この鳥居は実は昭和35年製で、余り古いものではありませんが、インスタ映えするとあって、湖をわたって鳥員にたどり着くと、そこで写真をとるのが海外からの観光客のお目当てす。そこから石段をのぼって本殿にはおまいりせずにすませるのが大半とのことでした。

一の鳥居 のコピー.jpg

箱根神社の宝物殿では特別企画展箱根神社の歴史を開催中でした。
箱根権現絵巻は関東地方の神社仏閣に現存する絵巻を代表する貴重な資料です。
頼朝の二社詣で以後、足利将軍家。戦国大名北条氏、豊臣秀吉、徳川家康など、おおくの武将の崇敬を集めたことを示す、自筆の書状が展示されていました。

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箱根神社
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神社を創建した万巻上人の木像

箱根神社には随処に神仏混交がみられます。
先の石段の数が138段、それも89段と49段に分かれています。数合わせすると、仏教の生老病死愛別離苦を表す、四苦八苦に通じます。おまけに89段目には厄落として曽我神社が祀られています。
また、大日如来を駒ケ岳、文殊菩薩を箱根権現、観音菩薩を芦ノ湖にみたてているのだそうです。

寺を建てるとき、万巻上人は仏に龍神をあわせたといわれます。
弥生時代になると箱根から西では牛神が信仰されるようになりましたが、龍神は。縄文時代から深く信仰されていました。
本殿の簗にも龍の彫刻があります。伊豆神社に似た彫刻があることから、作者は波の伊八ではないかと推測する人もいます。ちなみに伊八の波を絵にしたのが北斎です。有名な「富嶽三十六景」の「神奈川沖波裏」は伊八の波頭に感動して生まれたのです。
左右の唐獅子はまるで不動明王のようです。

箱根神社龍 のコピー.jpg
波の伊八(?)の龍の彫刻
箱根神社唐獅子 のコピー.jpg
唐獅子

箱根の山を静岡県の三島のほうへ下りていくと、函南(かんなみ)という町があります。箱根の別名は函嶺、その南に由来する町名です。
函南町桑原にはかって「桑原薬師堂」というお堂があり、平安時代の薬師如来像や鎌倉時代の阿弥陀三尊象と、それぞれに由来のことなる二十四体の仏像がつたわっていました。もともと複数の寺に分散してあったものが明治の廃仏毀釈で打ち捨てられたものを、地元の人々が薬師堂をたててまもっていたのです。これが平成20年になって町に寄付され、建てられたのが「かんなみ仏の里美術館」です。まだ新しく、知名度もありませんが、阿弥陀如来両脇侍像は国の重要文化財になっています。運慶作と言われる阿弥陀は慶派の特徴がよくあらわれています。なによりも、廃仏毀釈の嵐の中、山里に、廃棄された仏像を民衆が守ってきたという歴史が面白いではありませんか。

かんなみ仏の里美術館 のコピー.jpg
かんなみ仏の里美術館

箱根は関東の守りとして中世以来、時の権力者の信仰をあつめた神社ですが、例えば氷川神社のように末社をもっているわけでもなく、いわば権力に翻弄された神社ともいえます。多くの観光客でにぎわう今が一番いいのではと思われます。

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