コーセーだから №54 [雑木林の四季]
コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」 15
(株)コーセーOB 北原 保
内村鑑三に心酔/結婚式の前に大震災が
ゲッセネマの苦祈
小林孝三郎氏は20代で内村鑑三に凝ったのは、考えてみれば一足先に宗教観に入っていたということだ。いや、コーセー化粧品が迷いなく経済成長の波にのって不景気の波も知らずに伸びたのは、意外に小林社長が一足先に迷いから解脱していたからかもしれない。早い話、小売店に直結して小売店の利益とメーカーの利益をたがいに保障しあう〝コーセー協約金制度〟というアイデアは、並では考え出せないこと、コーセー会の小売店がこの考えに信仰したのは、小林孝三郎という人間の生き方を信じたからだろう。
小林社長に「座右の銘はなんです」と質問したら、内村鑑三の話がかえってきた。
「私の心の中でいちばん中心になっているのは、福音書にある〝ゲッセネマの苦祈〟なんです。そのマタイ福音書の内村鑑三先生の解釈は難解ですけど、いつまでも心にのこるものでしたね」
〝ゲッセネマの苦祈〟というのはキリストが受難というか、ハリツケになる前日に〝最後の祈り〟をしたところ、苦祈というのは、はじめ人間キリストはハリツケの前日に乱れに乱れて〝神様この私をたすけて下さい〟と悲しみ、祈った。何回もくり返し祈っているうちに祈りが進化してきて、〝神よ、御こころあらば私を助け給え〟と一歩進んだ服従の祈りになった。それでも祈りつづけているうちに〝神よ御こころのままになしたまえ〟と神様の御こころならば従いますという絶対服従の祈りになったというのだ。
「内村鑑三先生は、人間のこの世の生活の中で〝ゲッセネマの苦祈〟を経験することが何度もあるといっていました。が、私も仕事の中で思い出される経験が何度もありましたね。そんなときこれを思いうかべるのです。そうすると〝汝の敵を愛せよ〟という気になるものですよ。鑑三先生が亡くなって30年くらいかな。ついこの間という気がしますね」
小林社長の心の中にはいつも内村鑑三が生きている。
ちょうど、内村鑑三に心酔していたころ、小林孝三郎は妻きんさんと結婚した。大正13年1月のことだ。きんさんは茨城県堺町で親戚の引き合わせで見合いをして結婚の日どりを大正12年の秋に決めた。が、その年の9月の関東大震災で東京は焼野原になり、せっかく準備のために上野松坂屋で買いそろえたタンスや家財道具、結婚衣装など全部焼いてしまった。そのために予定していた結婚式は翌年に延ばす破目になった。それから40余年の後にきんさんに先立たれた小林社長は、妻きんさんをしのんで出版した「あやめは匂ふ」に、この時のことをこう書いている。
「着物の柄を選び、あれやこれやと乙女ごころに、一世一代の結婚式を夢見ながら、ようやくそろえたのに――。大震災は一瞬にして乙女の夢を叩きこわしてしまった……」
小林孝三郎、きん夫妻のために東洋堂では事務所だった邸宅の二階を新婚の住まいにと提供してくれたが、セールスマンの小林氏は、結婚早々20~25日の長期出張をするという生活で「ずい分さびしい思いをさせましたよ」と思いおこす。
「あの新婚のころは、アイデアル前社長の奥さんという人はきびしい人でしたから、食べ物とか掃除などで、義姉はずい分苦労したと思いますよ。兄貴の長い出張中は一人留守番しているんですからね」
小林聰三専務は兄孝三郎の新婚当時をカゲから見守っていた。というのは、聰三専務は五男で小林社長より10才年下だが、関東大震災の大正12年に上京して、兄孝三郎の世話でオンリー化粧品という会社に入社していた。
「たしかにそのころ、内村鑑三に凝っていました。よく弟の私は聞かされ役でしたよ」
(日本工業新聞 昭和44年10月24日付)
小林社長に「座右の銘はなんです」と質問したら、内村鑑三の話がかえってきた。
「私の心の中でいちばん中心になっているのは、福音書にある〝ゲッセネマの苦祈〟なんです。そのマタイ福音書の内村鑑三先生の解釈は難解ですけど、いつまでも心にのこるものでしたね」
〝ゲッセネマの苦祈〟というのはキリストが受難というか、ハリツケになる前日に〝最後の祈り〟をしたところ、苦祈というのは、はじめ人間キリストはハリツケの前日に乱れに乱れて〝神様この私をたすけて下さい〟と悲しみ、祈った。何回もくり返し祈っているうちに祈りが進化してきて、〝神よ、御こころあらば私を助け給え〟と一歩進んだ服従の祈りになった。それでも祈りつづけているうちに〝神よ御こころのままになしたまえ〟と神様の御こころならば従いますという絶対服従の祈りになったというのだ。
「内村鑑三先生は、人間のこの世の生活の中で〝ゲッセネマの苦祈〟を経験することが何度もあるといっていました。が、私も仕事の中で思い出される経験が何度もありましたね。そんなときこれを思いうかべるのです。そうすると〝汝の敵を愛せよ〟という気になるものですよ。鑑三先生が亡くなって30年くらいかな。ついこの間という気がしますね」
小林社長の心の中にはいつも内村鑑三が生きている。
ちょうど、内村鑑三に心酔していたころ、小林孝三郎は妻きんさんと結婚した。大正13年1月のことだ。きんさんは茨城県堺町で親戚の引き合わせで見合いをして結婚の日どりを大正12年の秋に決めた。が、その年の9月の関東大震災で東京は焼野原になり、せっかく準備のために上野松坂屋で買いそろえたタンスや家財道具、結婚衣装など全部焼いてしまった。そのために予定していた結婚式は翌年に延ばす破目になった。それから40余年の後にきんさんに先立たれた小林社長は、妻きんさんをしのんで出版した「あやめは匂ふ」に、この時のことをこう書いている。
「着物の柄を選び、あれやこれやと乙女ごころに、一世一代の結婚式を夢見ながら、ようやくそろえたのに――。大震災は一瞬にして乙女の夢を叩きこわしてしまった……」
小林孝三郎、きん夫妻のために東洋堂では事務所だった邸宅の二階を新婚の住まいにと提供してくれたが、セールスマンの小林氏は、結婚早々20~25日の長期出張をするという生活で「ずい分さびしい思いをさせましたよ」と思いおこす。
「あの新婚のころは、アイデアル前社長の奥さんという人はきびしい人でしたから、食べ物とか掃除などで、義姉はずい分苦労したと思いますよ。兄貴の長い出張中は一人留守番しているんですからね」
小林聰三専務は兄孝三郎の新婚当時をカゲから見守っていた。というのは、聰三専務は五男で小林社長より10才年下だが、関東大震災の大正12年に上京して、兄孝三郎の世話でオンリー化粧品という会社に入社していた。
「たしかにそのころ、内村鑑三に凝っていました。よく弟の私は聞かされ役でしたよ」
(日本工業新聞 昭和44年10月24日付)
小林孝三郎と大久保きんの結婚式は1923年秋の予定だったが、9月1日の関東大震災で翌1924年の1月11日に延期された。
小林きんは1965年(昭和40年)8月31日64歳で逝去。妻を偲んだこの手記は同年10月に発行されたが、タイトルは庭に様々な花を咲かせることを好んだきん夫人が、とりわけ好きだったという「あやめの花」からつけられた。
2019-08-26 10:33
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