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対話随想余滴 №20 [核無き世界をめざして]

余滴20 関千枝子から中山士朗様へ

           エッセイスト  関 千枝子

 選挙も済みましたが、私、結果も結果ですが、あの投票率に呆れています。日本人は自分たちが主権者であることを忘れてしまったのでしょうか。
 と言っているうち八月ももうすぐ。忙しくなりますので、余滴の20を今書いています。この次は八月広島報告となりますかな。
 余滴19の冒頭にありました狩野さん大腿骨骨折で、今リハビリ病院入院中です。まだしばらくは入院しているようですから、退院となった時、私たちのやりとりのコピーでも送りましょう。この前電話ありましたが、声は元気です。私も声は元気なのですが、体力の復活がまだまだです。全く、年寄でなければ、大腿骨骨折はしないと我がドクターは言っておられましたが、困ったものです。しかし、体がこうなると今まで平気だった道などのバリアーが見えてきます。これは悪いことではありません、今度の参院選で山本太郎の「れいわ新選組」=このネーミングは嫌ですね=が身障者を国会に送り出すことになりました。どんな騒ぎになるか。もっともALSの人は声も出すこともできませんから介助者が二人以上いるでしょう。騒ぎになりそうですね。
 この前は狩野さんのお便りしか紹介しませんでしたが、「対話随想」にたくさんの方から礼状が届いております。ほんのちょっと紹介しただけの、山梨の劇団「山なみ」の方は、劇団員に本を読んで紹介した、団員一同喜んだ、とありこちらの方こそ、恐縮です。昨年、原爆証言に行った都立高校の先生からは、都立高校の修学旅行の費用の上限が一万円上がって、沖縄にも行けることになったとありました。これはうれしいことです。平和教育に修学旅行の力は大きいです。昔のような、平和修学旅行の復活を祈っています。
 さて、渡辺美佐子さんの「夏の雲は忘れない」の公演が今年でおしまいになるということですが、渡辺さんのあの新聞インタビューでは少しわかりにくいかと思い、ちょっと「説明」を加えます。
地人会の木村光一さんが朗読劇「この子たちの夏」を始められたのは一九八五年です。その時私のところにも話があって、私の本の中から一部使いたいということだったのですが、脚本が私の気持ちとちょっと違うように思い、お断りした(脚本から抜いてもらった)ことがあります。この朗読劇は評判になりましたが二〇〇七年地人会解散の時に、劇はこれで打ち切ると木村さんは言われました。出演の女優さんたちは続けたかったのですが、木村さんは許されませんでした。そこで女優さんたち十八人は新しい脚本で(原爆の手記はたくさんありますから)「夏の雲は忘れない」を作り、その公演が今に続いています。それが今年でおしまいになるわけです。(その後、この子たちの夏も、2011年復活しました。).
「夏の雲は忘れない」が始まる時、舞台の映像に私の本からの写真を使いたいというお話があり、そんなこともあって「夏の雲…・」の公演の第一回に私も招かれました。そこが跡見学園だったのです。
 跡見は狩野美智子さんの母校でもあり、戦時中でも割合おっとりしたところのある学校だったようです。
 「夏の雲…・」の公演のやり方は、その公演を企画してくださった地元の方の中から何人かの人を選びその人たちが朗読の一部を受け持ち、女優さんたちとともに舞台に立つ方式です。跡見でも高校生の何人かがともに朗読しました。とても好ましく思われ感心したのですが、私たちが公演を見に行ったことを、跡見の学校の方が大変喜ばれ、跡見に関する資料をくださったのです。私はそれを読み、学園長先生の文章に大変感動し、学園長先生にお手紙を出してしまったのです。先生はそれを読まれ、当時から跡見は中学生が広島に修学旅行をしていたのですが、中二の担任の先生に私のことを紹介してくださり、私は以来(毎年冬一月ごろですが)事前学習に伺っています。ここは、とても熱心で、冬休みに入る前に私の本を全員に読ませ、(素晴らしい感想もいただいています)、そのあと私の「講演」になるのですが、「私のクラスはあなた方の年にみな死んでしまったのよ」というと、会場は静まり返り、皆、よく話を聞いてくださいます。私は高校生にも話すことがありますが、跡見が一番話しやすく、熱が入ってしまうのです。私の「広島第二県女二年西組」が版を重ね、今11刷りになっているのは、この跡見で中学二年生全員に読ませてくださっているのが大きいのではないかと思うのですが。
 一方、『夏の雲…・』の方も、毎年公演を続けていますが、これも必ず第一回が跡見なのです。毎年、十八人の女優の一人、大原ますみさんが日取りを知らせてくださり、私も万障繰り合わせ参加。こうして、毎年二回の跡見行きが一〇数年つづいたわけです。
 それが今年は六月二十八日だったのです。ししかし、この日は女性「9条の会」の世話人会の日とぶつかり、この会にも私の骨折事故でご迷惑をかけており、この日はしばらくぶりで「役目」も持たされていたものですから、残念ながら、『夏の雲…・』にはいけませんでした。今年で最後になるというときに、本当に残念でしたが‥‥。
大原さんは、一二年間、毎年電話をくださっていました。確か、始めは大原さんと山口果林さんのお二人からあったと思うのですが、ずっと連絡くださっていたのは、大原さんでした。この舞台の背景の映像に、私の第二県女の級友の写真が使われているから、というご縁で、毎年義理堅くお声をかけてくださった。その最後の跡見の公演に行けなかったのは本当に残念でした。
 この一週間後七月十三日、私の所属しているパルシステムという生協で、「原爆から74年、時代を越えて平和を語り継ぐ」という催しがあり「はだしのゲン」の映画を見、そのあと私が少しお話をしました。生協は全国組織が一緒になって、広島、長崎ツアーをし、わが生協もそれに参加します。その参加者の事前学習に私、毎年招かれているのですが、去年は「都合がつかない」と言って来ない人が多く、事前学習そのものが流れてしまったのです。もともとツアー参加者はそんな多くではない(全国の催しなので参加数の限りがあります)ので、小さな事前学習会では申し訳ないと、今年はオープン方式というか、ツアー参加者だけでなく一般組合員にも呼び掛けたというのです。そうしたら「はだしのゲン」の映画が当たったか、七〇人も参加、しかも半数が小中学生だというのです。
私もたいへん張り切りました。私、中学生に話すの好きですから。
 とにかく、天気が悪いのに七〇人集まりました。小学生が多くて中学生は一人でしたが(でも、その子、二年生)、原爆のリアルな描写に気持ち悪くなる子がいては、と生協のスタッフは心配していましたが、そんなこともなく、皆、よく集中して熱心に見ていました。その後も、子どもにもわかりやすく、原爆のことを知らない人にもわかりやすく、(中にはウラニウム爆弾とプルトニウム爆弾の違いもよく知らない人もいるようで)話したつもりです。皆とても静かに聞いてくれました。
「どうしてはだしのゲンの漫画が学校の図書室から取り除かれたりしたのでしょう」という質問が出ました。「子どもに見せるのは残酷だ、など言われたこともあったようです。でも、ゲンの話は本当にあったことなのですよ。ゲンは、小学生で、実際にこんなひどい経験をしたのです。それが戦争、原爆なのです」と私は言いました。
 たくさんの人が感想を書いてくださいました。大人の人が書いたのが多かったのですが、とても真剣な感想がおおかったです。原爆のことをよく知らず、ゲンの映画を見たのも初めて、ヒバクシャの話を聞いたのも初めてで、珍しい経験をしたなどというのもあり考えさせられました。
 しかし、前回の手紙で報告した、私が会った熱心な大学生、彼も、最初のきっかけは小学生時代の『はだしのゲン』の映画だと言っていました。この日の子どもたちの心のどこかに、人類と共存できない凶器、核兵器について、記憶が残るだろうと思っています。
 この後八月、大変充実した日を過ごしたのですが、あまり長くなってしまいました。次の号で報告します。

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