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渾斎随筆 №39 [文芸美術の森]

逍遙十三回忌 

                 歌人  会津八一    

 坪内逍遙先生が、なくなられてことしが十二年目で、この二十八日に熱海の御宅では、十三回忌の法要が、いとなまれるといふ風に新聞などで承知してゐる。主催者の方からは、まだ何も知らせて来てゐないが、知らせのあるなしにかかはらず、私などは、その日には御参りをして、つっしんで御焼香をしなければならないところだ。
 私は、少し早熟の方で、早稲田へ入學しないうちから、文學の價値の標準について、今でいへば御恥つかしいほどのことであるがその頃はその頃として、やはり一つ自分特有のものを持ってゐて、それで新聞に物を書いたり同人雑誌を出したりしてゐた。けれども年はまだ若かつたし、學問といへば、初歩といふほどにも踏み込んで居らず、見聞も狭いので、出来るだけ教義を積みたいといふので、東京へ出て學校へはひつたのであるから、今でこそ恥づかしいの何のと自分でもいふけれど、その頃としては、ぽっと出の、ぼんやりした普通の書生さんと、一しょにいろいろの講義を聞いても、一から十まで感服し、それがそのままあたまへはひつて、血になり肉になり、骨にもなるといふ気はしなかった。中には何の糞にもなりさうもないと思ふこともないこともなかった。もともと何のために、わざわざ東京まで出て来て、金も使って學校にゐるのか、まるで意味のないことにもなるから、自分としては出来るだけ気特を平らにして、好き嫌ひをいはず、えり好みをせず、毎週の時間割通りにすべて出席して、ノートも取り、宿題のリポートも、いはれるままに出したものであった。
 さうした私の學生生活の間に、さすがに気廓の大きさ、學識の深さ、廣さ、燃ゆるばかりの熱意、行き届いた親切心、明確な道義心、かぞへ来ればかぞへつくせぬ偉さに、驕慢な私も、あたまを下げたのは坪内先生であった。私が五年間、早稲田で、すなほに辛抱してゐたのは、この先生が一人居られたためであらう。
 けれども、私が坪内先生に、もつと親しい気持で、ますます敬服の度を深めるやうになったのは、明治三十九年の七月に卒業してから暫く越後に帰って有恒学舎の教師をして居り、その後四年たって再び上京してからのことである。この頃のことは、いづれ何かに書いておかねばならぬと思ってゐるが、先生の晩年には、いつの間にか、私が誰よりも一番親しく御ちかづきを願ふやうになり、折々御訪ねをしたり、時としては御訪ねを受けたり、一週間も泊めていただいて温泉で保養をしたり、創作の上で御相談を受けたり、無遠慮な意見を申上げたり、またその間には、私のわがままな無心を申上げたりするやうにさへなった。先生の全集ともいふべき「逍遙選集」は、先生の御懇望を受けて、表紙も、扉も、私の筆で書いてあり、その中に出て来る寫眞で、先生が門下生と寫つて居られるのといへば、私との場合だけである。だから、今からは、もう十二年前になる熱海の御邸で御葬式の時には前後数日間、私が柄にもなく出しゃばって、さしづをしただならぬ顔色をして棺側に頑張ってゐたことが、今でも一つ噺に遣ってゐるけれども、私の気持としては自然のことであった。
 その時、これも先日死なれた内ケ崎作三郎さんが、かけつけて、日本文化に封する先生生前の功労に酬いるために、勲章を賜はるやうに盡力したいと云はれるので、奇妙な思ひっきだとは思ったが、取りあへず、それは何等ですかと尋ねると、初叙だから四等より上はいけなからうといふので、私の友人でも三等ぐらゐの人はいくらもあるのに、今にして先生ほどの人を勲四等には出来ませんと、私は一存でことわった。内ケ崎さんが東京へ締ると、その翌日、やはり代議士のある人が、そんなら一等なら受けて貫へるかどうか、と念を押しに来たが、一等でも大勲位でも御もったいないことで申わけがないが、先生の素志でないからと、私は、奥さんにも誰にも相談せずに、断然御ことわりした。そしてその代りに、かうした文化的な功労者に向つては、国民の代表者として衆議院の力で為し得る一つの事がある。それを御考へ願ひたいと註文をした。それが行はれたものかどうかは知らないが、衆議院は、東京で行はれた御本葬の日に、各政黨を代表する人たちの追悼演説の後に、院議を以て、満場一致先生に敬意を表したのである。
 その後、年々私は熱海に行って老夫人に御眼にかかり、いつも昔噺に時の移るのを忘れたものであるが、たしか三回忌の時かと思ふが、二十名ばかりの弟子どもが参集している
ところへ身延山の日蓮宗大本山の望月大僧正が来て、讀経してくれられた。大僧正は喉が弱くて、小田原の末寺へその頃毎年冬は養生に来てゐられたのであった。そして御経が済むと、われわれに向つて、こんなことを云はれた。愚僧は、こちらの先生の御生前には、御面識もなく、御交際も願ってはをりませんでした。が今日は御忌日と承りまして、御恩返しにと存じてまゐりました。第一に先生は、「法難」の御作で、わが宗租日蓮聖人の精神を天下に御宣揚下さいました。第二に、先生は私どもの弟子坊主、石橋湛山と申しまするものを、ねんごろに御教育下さいました。この二つの御恩は重大でございます。
 その時に、その席に居あほせた田中穂積、金子馬治、中村吉蔵、長谷川誠也、吉江喬松、西村翼の諸君は、もう、とっくに死んで、最近には五十嵐力君も亡くなったらしい。長い間先生の家事向の相談役として殆ど一生を奉仕した稀書複製会の山田清作君も昨年死んだといふ。望月さんももう亡い。そして相馬君や私は、よしんば案内を受けたにしろ、こんなに不便な交通では、あちらまで行き終せるものかしらと、私にはそろそろ卑怯な心が起りかけてゐる。こんな風だから熱海市と早稲田大學とが協同主催でやるといってもこの十三回忌は、かなり淋しい顔解れであらうが、先生の感化は廣くて深いのであるから、早宿田ばかりでなく、ひろく現代のわかい人々が参加して、この供養が厳修されるならば、先生の霊も、さだめし御よろこびであらう。
 私はかつて石橋君に、どこかで遇って、身延の老師の、熱海での言葉を博へたら、石橋君は黙って、目を輝かせていたことがあるが、今、日本中で、ろくろく定見も無いやうな連中まで冷評をしたり、漫画にまで描いたりしてゐるけれども、石橋君は国のためにそれこそほんとに日蓮のいふ不惜身命でやって居るのにちがひない。その精神と武者振を、二人の老人が、あの世から見透して、欣んでゐられるのであらう。

                  『夕刊ニイガタ』昭和二十二年二月二十八日

『会津八一全集』 中央公論社

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