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じゃがいもころんだⅡ №15 [文芸美術の森]

お盆に寄せて

             エッセイスト  中村一枝

 子供の頃、お盆というのは楽しみの一つだった。わたしの家では父はその手のことにはまったく興味はなさそうだったが、母は決まってお盆の準備をした。お供えに、茄子や胡瓜の動物をつくって飾るのも楽しいことだった。戦争中は灯火管制とかで門口で火を炊くのは遠慮したが、伊東に疎開すると大家さんのおばあさんがとれたての茄子や胡瓜をお盆にのせて届けてくれた。満天の星空の下で送り火を炊くのはまた楽しかった。まだアメリカの空襲が来る前のことだった。おばあさんの家にはその外わたしと同い年くらいの男の子とが二人いて、いつの間にかすっかりなかよしになつていたのだ。わたしの母はかなり年をとつてもお盆の習慣を律義に守りつづけ、迎え火送り火の習慣を絶やさなかった。私はいつのまにか遠ざかったが、子どものいる家庭ではなかなかいい習慣だといまも思う。 
 日本の宗教は仏教だと言っても実際は葬式の時にその価値を発揮するわけで、わたしなど普段仏壇は放りっぱなしである。4年前に娘が亡くなって 仏壇の仏様は四人になった。夫の両親、そして夫と娘。私は宗教心というものがとりたててないせいか、お盆だからと言ってとりたてて何をするわけでもない。気が向けばお線香を焚くくらいの不肖の子孫なのだ。それでも心の何処かにお盆とか命日だとかの観念があるのは何故だろうか。娘を葬るとき娘に晴着を着せた。成人式のとき作った晴れ衣裳である。五十二歳で亡くなった娘はその晴着に何度も手を通している。それを亡骸に着せたときは悲しかった。娘を先に見送る羽目になるとは全く思ってもいなかった。あとからあれだけ大きい乳癌に気がつかなかった私の迂闊さを恥じた。それとも気をつかせないように隠し通したのか。彼女の思いを今でも痛いほど感じる。一生思い続けるだろう。彼女の死後細かい字でびっしり書かれた日記帳が何冊も出てきた。私が何かというとすぐ文章を書きたくなる、それと共通の思いを彼女も持っていたんだと思った。時々開いてみるが、細かい字でびっしり書かれた日記帳はとてもいまの私には読み切れない。
 ごく最近子供が幼稚園児の頃からの友人の一人が亡くなった。80になったかならないかだった。10年近く肝臓をわずらっていた。病気のためにはあらゆる努力を惜しまず頑張っていた。いい先生にも良質な病院にも恵まれ、経済的にも恵まれていたのに、肝臓ガンは実にしぶとかった。ガンの種類もかなり難しかったようだ。恵まれた環境の中彼女はもう一度立ち上がりたかったに違いない。この暑さが衰弱して行く彼女にこたえるのではとひそかに案じていた。亡くなったと聞いて一週間以上たってから彼女に花を送りたいと思った。一輪でもいいから送りたかった。お花を送りたいと自宅に電話をすると、「家じゅうひっくり返っているから、九月過ぎてからにして欲しい」という電話があった。頑固で丁重な言葉の中に彼の人知れぬ失意と悲しみを感じた。ふだん明るく苦労知らずの人に思えた彼の内心の悲しみが浮き上がった。人間って複雑で悲しいものです。


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