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雑記帳2019-8-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-8-15
◆鎌倉街道、今回は小野路から七国山を経て野津田の薬師堂まで歩きます。

小田急線鶴川駅からバスに乗車、先回の執着点、小野路宿通りから歩き始めました。通りの、管理の行き届いた側溝に見られたのはドクダミ科の半夏生です。
二十四節季のひとつ、半夏生は、夏至から数えて11日目、その近辺の5日間にあたります。ちょうどこの時期が植物の半夏生の季節だからと言われているのです。歩いたのは7月3日。まさに半夏生でした。

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小野路宿通り
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側溝の半夏生

通りすがりの小野神社で、小野大明神の灯篭に角倉熊蔵の名が彫られているのに気が付きました。角倉家は江戸から明治にかけて、小野路で繁盛していた旅籠(はたご)でした。

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門倉熊蔵の名がみえる灯篭

神社前を通るメインストリートから脇道にはいると、その道は「御尊柩御成道(ごそんぴつおなりみち)」と呼ばれていました。1617年の造成。
前年、徳川家康が死去。駿河の久能山に埋葬した遺骨を日光へ移したルートが御尊柩御成道なのですが、各地に作られた御成道で明確にこれとわかる道は他には残っていません。馬が4頭並んで通れる道は、当時の街道の倍の広さがありました。

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御尊櫃御成道

迂回してもとの街道に戻り、野津田公園の西入り口付近にあるのが小野路一里塚です。御尊柩御成道が整備されたおりに造られたものであるといわれています。江戸中期には大山道の旅程標識として使われました。
江戸の一里は108間、3974mです。めぼしい街道にはきっちりと一里毎に塚が建てられ、目印に道の両脇に榎の木が植えられました。小野路の一里塚の規模は、東海道、中山道に比べて小さく、街道の格に差をつけたもようです。
また、道中奉行は駕籠かきの代金を塚を目安に設定しました。距離に応じていくらというこの仕組みは今のタクシー料金の設定と変わりません。乗客も駕籠を降りるのは塚のある場所と心得ていたようです。乗る側にも流儀があったのですね。
小野路村の人々が御成道や一里塚造成に多大な労苦を費やしたことに対し、幕府は以後の助郷を免除しました。

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小野路一里塚

野津田公園を左に見ながら進む道は通常の街道の広さです。この坂道を登った頂上にあるのが町田丘の上病院。ここからは下りです。付近に野津田高校もあって、狭い坂道は高校生の自転車通学路になっていました。
ちなみに江戸時代、街道は馬や牛は通れても、大八車はご法度でした。武器をかくすことが出来る大八車を厳しく管理したことは想像にかたくありません。

坂道をくだりおわると57号線にぶつかります。通りを横切って鶴見川にかかる小さな橋をわたると、山崎町を経て七国山(ななくにやま)へと入っていきます。
七国山は標高128.5m。鎌倉時代に鎌倉と上州方面を結んだ鎌倉街道上道の古い標識が現在ものこっています。近隣の本町田や小野路は古くから宿場として栄えました。頂上付近から相模、甲斐、伊豆、駿河、信濃、上野、下野の7つの国を見ることができたため、そのように呼ばれたということです。国とは言っても、その国のランドマークがみえたということでしょうが。一時、トトロの七国山(しちこくやま)とまちがえられたことがありましたが、そちらは東村山市にある狭山丘陵東部の都立八国山緑地がモデルです。

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七国山

七国山山頂からすこし下って行くと、切通の西側に「鎌倉井戸」と呼ばれる1mほどの井戸跡があります。
鎌倉海道の七国山ルートは、鎌倉幕府成立後に拓かれ、峠付近では水に乏しいことからこの井戸が掘られたものと考えられています。ほかに、新田義貞が鎌倉を攻めたとき、軍を進める途中に、ここに井戸を掘り、この井戸の水を軍馬に与えたという伝承もあります。

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鎌倉井戸

井戸掘りの技術は時代によって異なります。江戸時代には10m掘ることも可能になりましたが、鎌倉時代は1mがやっとでした。いずれにしても、水を確保することは人の営みには欠かせません。水脈をみつけるのが得意な人物が強い武将になれた時代もあったのです。加藤清正などもその例でしょう。

昼食は「味の民芸」でうどん御膳をいただきました。疲労回復にと勧められて飲んだ冷やした甘酒がおいしかったです。添えられたレモンがよくあいました。

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ランチと甘酒

昼食後向かったのは薬師池公園です。鎌倉海道に面し、東京都指定の名勝文化財になっている公園には、薬師堂や、古民家、大賀ハスの池があります。

薬師堂は古く天平年間に行基の開基とつたえられますが、室町時代末期に荒廃していた寺を僧興満が再興して福王寺と称しました。現在の薬師堂は福王寺薬師堂のことで、明治15年、今から140年ほど前に再建されたものです。
総檜造りの御堂は内部に贅沢な木組みが施されていて、簗の獅子や龍の彫り物は見ごたえがあります。御堂と外柱をつなぐまがった梁・海老虹梁(えびごうりょう)の透かし彫の龍はなかなかのものでした。(うまく写真がとれなかったのは残念。)
薬師堂の本尊である木造の薬師如来像は平安後期、11世紀ごろの作で、町田市内の木造佛としては最古の仏像です。両脇に日光、月光菩薩を、背後に12神将を従えて、12年に一度、寅年の4月に御開帳されるということです。

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薬師堂
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再建当時流行した火頭窓

公園の一角には江戸時代初期の古民家が移築されています。永井家住宅です。
もとは町田市小野路町にあった農家で、17世紀後半に建築されたものです。町田市に寄贈され、昭和50年に薬師池公園内に移築復元されました。典型的な多摩丘陵地の農村家屋で、多摩地方では最も古い民家に属し、当時の生活を知る上でも重要な古民家です。開口部が少ない上、この時代(5代将軍綱吉・元禄時代)にはまだ畳はなく、床は竹すのこでした。

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古民家

福王寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になり、薬師堂が残っているだけですが、広い公園全体が福王寺の境内でした。阿弥陀堂も今はありませんが、池に橋がかかているのを見て、浄土庭園ではないかと指摘する人もいます。浄土庭園は平安時代から鎌倉時代に流行した庭園の形で、極楽浄土の世界を再現しようと、金堂や仏堂などの寺院建築物の前に池が広がる形をとっています。春分秋分の日の朝陽が池越しに阿弥陀堂の如来の額にあたり、後光がさしているようにみえると、庶民はたいそうありがたがったそうです。浄土庭園といえば、宇治の平等院や平泉の毛越寺、京都木津川のの浄瑠璃寺などが思いうかびますが、その外にも、意外におおくの全国の寺院で採り入れられています。

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薬師池(画面左に橋が架かっているの見える)

薬師池公園の最後の見どころは蓮池です。
「大賀ハス」は、故大賀一郎博士が昭和26年(1951)に千葉県剣見川遺跡の青泥層から2000余年前のハスの実3個を発見し、そのうちの1個だけ発芽に成功したものです。
薬師池公園の大賀ハスは、大賀博士と縁故があった寺や人物から根分けしてもらったものを大切に育てているということです。ちょうど、蓮の開花の季節、早朝に開き始めるという蓮の開花時間はすぎていましたが、運よく少し咲き残った蕾を見つけました。
古代ハスは、今では、国内だけでなく世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っています。 ピンク色の大輪の花は、優雅な美しさと悠久のときを超えた生命力が尊ばれているのだそうです。

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大賀ハス

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