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対話随想余滴 №19 [核無き世界をめざして]

余滴19  中山士朗から関千枝子様へ

                 作家  中山士朗

 まずもって、狩野美智子さんの歴史的記憶を傷つけたことを深くお詫び申し上げます。改めて『広島対話随想』の四十六ページから五十一ページを読み直し、ラジオ放送の」天気予報」復活にこだわり過ぎ、不適格な表現になっていて、狩野さんにご迷惑をおかけしたこと、深く反省しております。どうぞ、関さんからもよろしくおとりなしくださいますようお願いいたします。
 このところ、狩野さんをふくめて関さんや私たちの世代の戦争、原爆に対する発言が、新聞紙上で大きく取り上げられるようになりました。被爆、敗戦七十四年目の夏を迎えての特集記事だろうと最初は思いましたが、そうではなく、あの戦争を体験し、その記憶を語ることのできる最後の世代の人びとが消えてゆくために、その証言を遺し、継承するためであることに気づきました。私たちの『ヒロシマ対話随想』と同じように、消えてゆく者の証言、継承の静かな語りがありました。
 はじめに、関さんが『ヒロシマ往復書簡』で、平幹二朗さんとニ人だけの出演「黄昏にロマンス』について語っておられましたが、その俳優の渡辺美佐子さんについて書いてみたいと思います。
 現在八十六歳になる渡辺さんは、広島、長崎で被爆した人の体験記を読む朗読劇「夏の雲は忘れない」を戦後四十年の節目の年に始め、三十四年にわたって、千回も公演を続けている人です。
 その朗読劇が、幕を閉じることになったと六月十九日の朝日新聞に報じられていました。
これについて渡辺さんは、
「私たちが年を取って、体力的に限界になりました。女優達だけで運営しているので、十八人いたメンバーも十一人になりました。一九八五年に始まった『この子たちの夏』は原爆で子どもを失くした母親の話が中心で四十から五十代の女優たちが出演しました。各地からお呼びがかかり、それ以後三十四年間、七月と八月はほかの仕事を断って、全国を回る夏が続きました」
 と答えていました。
 このことは六月二十一日の大分合同新聞にも大きく報じられていて、今月中旬に東京都内で行われた稽古に、渡辺美佐子さん(86),高田敏江さん(84)、長内美那子さん(80)、山口果林さん(72)らが参加している写真が掲載されていました。
 そして、
 -―広島の原爆で初恋の人を亡くしたことが、参加するきっかけだったそうですね。
この質問に対して、渡辺さんは、
「劇の始まる五年前、テレビの対面番組で、国民学校時代の級友が広島の原爆で犠牲になったことを知りました。私が会いたいと願っていた水木龍雄君でした。番組に出てきた彼の両親は、「遺体も遺品もなく、目撃者もいないので、いまだに墓も作れない」と語りました。広島で十四万人、長崎で七万四千人が犠牲になったことは知っていましたが、その中に彼がいたことは衝撃でした。」
 「テレビのカメラは私の涙を撮ろうとして近づきましたが、私は泣かなかった。あの時、こらえた涙が心の中で固まって理不尽なものへの怒りに変り、その後の私を動かす力になってくれたと思います。」
 私はその時の場面をテレビで見ていて、その話を往復書簡で書いております。 
そして、一九四五年の東京大空襲の経験について質問されると、
「私が小三の時、太平洋戦争がはじまりました。戦禍が拡大して、多くの級友が疎開する中、「死んでもいいからお母さんと一緒にいる」と言い張り、終戦の三カ月前まで東京に残った、「毎晩十二時になると空襲警報が鳴り、防空壕に入る。焼夷弾はひゅる ひゅる、ひゅる、爆弾はザーと落ちてくる。」
 「一番つらかったのは、食べ物がなかったことです。父がどこからか時々真っ黒な米をもらってきましたが、食べられたものじゃなかった。母が煎った数十粒の大豆を袋に入れて渡されるのが一日分の食糧でした」
 と答えていました。
 この個所を読んだとき、前回の関さんの手紙に「山の手大空襲を語る会」で関さんの東京女学館の後輩生徒が、焼夷弾が落ちるときのザーという音について質問している場面を思いだしました。そして、私自身は、原爆が炸裂した時の、地の底から私自身の全身を貫き、一瞬耳の鼓膜が破裂したかのような音響が伝わってきたことを昨日のことのように思い出したのでした。
 最後に、戦争の継承についての質問については、
「大事なのは教育だと思います。どうして日本は勝つはずもない戦争をしたのか。なぜ、年寄りと子ども、女しか住んでいない都市に原爆が落とされたのか。戦争に行けば、普通の人間が人を殺す。そういった事実を子どもたちにきちんと教えれば、ばかばかしい戦争が防げるのではないでしょうか。学校で戦争の恐ろしさを教えてくれれば、私たちの朗読劇も必要なくなるんですよね。」
 そして、「今の綱渡りの世界の平和が、広島、長崎の犠牲者に支えられていることを私は忘れません」と語っていました。
 その直後の六月二十七日のNHKテレビで、奈良岡朋子さん出演の番組がありました。番組の標題は、<奈良岡朋子89歳大女優と戦争体験。運命の広島公演に向け>となっていました。
 奈良岡さんは、渡辺さんと同じ日本橋の出身で、大空襲に遭って食糧難に喘ぎ、青森に移るまでの三カ月、草などを摘んで飢えをしのんだことを語っていました。彼女は、毎年八月六日が近づいてくると、井伏鱒二の『黒い雨』の朗読会を開いています。今年は、山形で開かれる様子でした。
 広島との縁は、昭和二十五年に新藤兼人監督の映画『原爆の子』に出演したことでした。
 昭和二十五年と言えば、広島市内は原爆で破壊された風景がまだ生々しく残っていました。したがって、現在のように宿泊するホテルや宿の設備がなかったので、普通の民家に泊めてもらって撮影に行ったと語っていました。
 彼女らは広島に行くと、必ず丸山定夫の「移動演劇隊殉難の碑」を訪ね、合掌していました。最後に、「朗読ならば、車椅子でできますからね」と語った言葉が、強く印象に残りました。

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